修養科中に別席を運ばせて頂いた。別席運びも中席ぐらいのころだったと思う。柳井徳次郎先生に私はいろいろと御教理を仕込んで頂いていた。先生は、私の亡き父と同じ時に本部准員に登用されておられて、亡き父とは親交があったので、私が復員してからも何くれとなくお道を教えて下さっていた。当時、先生は元の郡山詰所(本通りの南側に木造の大きな建物があった)の正面の本館に起居しておられた。
ある日の夕方である。秋口で、太陽が釣瓶落ちに沈んでもう薄暮であったと思う。突然、先生が私に、「芝さんあんたもうじきにおさづけ戴くのと違うか」とたずねられた。「ハイ おさづけ戴きます」と返事したら、「おさづけ戴いたらなあ、宵越しのおさづけ使いなはんなや」とおっしゃった。この一言が、私のその後の人生を大きく変えることになる。
神様のお言葉に、「親という理を戴いたら晴天の心と諭しおこう」という意味のお言葉がある。親の声は天の声である。神様は人をもって言わして下さっているのである。私は柳井先生を親のように思いまた尊敬していたので、先生のおっしゃることは神様が人の口を通して言って下さっていると信じていた。
柳井先生のおっしゃるように「宵越しのおさづけ』 を使わんようにしようと決心した。つまり、おさづけは拝戴したその日のうちに取り次がせて頂くというのである。私は修養科生だったから、私の組にも病人はたくさんおられた。当時はまだ肺結核患者が多くて、五、六 人もそんな疑いのある人がおられた。中風の患者も同じ組におられた。そうした身上者におさづけを取り次がせて頂くのには別に苦労はいらない。しかし、こうした身上者はみんな理の親がある。私が戴いたおさづけを生まれて初めて取り次がせて頂くのには、やはり処女が望ましい。理の親のないのがいい。未信者でないといけない。私はそう思った。開拓の努力 が必要だ。頭をめぐらせると思い浮かんだ。胃潰瘍の身上で寝ている婦人である。天理教の大嫌いな婦人である。早速、電車に乗って訪ねて行った。胃潰瘍はもう病膏盲(こうもう)に入って治らない。医者は家族の人には、お母さんの胃潰瘍は治らない、助かりようがない、こんど血を吐いたらもうおしまい、覚悟をしておきなさい、と告げられている。時は昭和二十二年、敗戦直後である。治療するにも薬はない。手術はできない。栄養剤はない。当時は、病人がいても手当ての仕様がなかった。死を待っているような時代であった。この患者さんに私はにをいがけにいった。胃潰瘍だから胃が痛む。もう三回も吐血している。この婦人をうつむけに寝かせて背中を押してあげる。気持ちがいい。そして天理教の話をしてあげる。神様はどんな病気でもたすけて下さる。神様に凭れる心になったらたすけて下さる。
ふじゆうなきやうにしてやらう
かみのこころにもたれつけ 九下り目二ツ
とおっしゃって、神様のお心に凭れついたらどんな痛みも病気も取って下さる。神様を信心したらたすけて下さる。四、五回も通った。修養科の日課が終わって詰所へ帰ってから、夕刻にかけて出掛けて行った。五回目ぐらいに行った時、おさづけを取り次ぐ約束が出来た。やっとの思いで一人が出来た。
私は昭和二十二年十一月二十三日におさづけを頂いた。だから、私はおさづけを戴いた日を忘れない。おさづけの理の尊さを末代に残していこうと思って、その後布教して教会にな った時、教会の月次祭を二十三日に決めた。教会は末代である。孫や曾孫や末孫が教会の担任者になっても、月次祭は変わらない。この教会の月次祭日は初代がおさづけを拝戴したその日なのだ、と万劫末代おさづけの理の尊さを伝えていくために、祭典日に決めたのである。ちょうどその日は、朝のお運びであった。昼ごろにはすべて終わった。紋付を着て詰所へ帰ってから、そのまま財布を持って電車に乗った。おさづけをする時は昼食もぬきである。
この婦人におさづけを取り次がせて頂いた。首から顔から汗がにじみ出た。十一月二十三日というと、もう冬の始まりである。ほの寒い時であった。それにもかかわらず最初のおさづけの時には、感激の余り汗が滲み出た。うれしかった。あのうれしさは格別であった。今でもその時のよろこびが伝わってくるように思う。
神様のお言葉に、「ふと浮かぶは神ごころ、後で濁すは人ごころ」と教えて下さる。日々の生活の中で、何かの折にふと頭に思い浮かぶことがある。それは神様のお働きである。神様が名案なり、良い思案や賢策を思いつかせて下さっているのだ。それをそのまま素直に実行したら、たいした御守護を頂くのだ。けれども人間思案を立てて、そんなことやってもとか、そんなにしなくてもとか、それは考えるだけで実際はそんな具合にはゆかんわとか、せっかく思い浮かばして下さった名案を人間思案を先に立てて砕いてしまう。それを神様は、 「人ごころで濁してしまう」と教えて下さっている。
ふと浮かぶ神ごころこそ天の最大の御守護なのである。私の場合に考えてみたら、柳井先生に「宵越しのさづけは使わないように」と教えられた。私はそれを神ごころとして実行した。病人さんの説得にかかった。なかなか聞いてはくれなかった。しかし根気よく通った。四回も五回も。とうとう最後に聞いてくれた。だから私は汗をかくほどの感激を味わうこと ができた。そして、それから数々の測り知れないほどの御守護を頂いてきた。もしもあの時、柳井先生は宵越しのさづけやとおっしゃるが、私はまだ修養科生なのだ、修養科生だから修養科のことさえしていたらいいのだ。おさづけはだんごやぼた餅じゃないのだ。ほっておいても腐らないのだ、おさづけを戴いて三日経ってからでも良い。三年経ってからでもよい。 病人が見つかった時に取り次いだら良いのだ。それまでほっておいてもどうということはない、と人間心で神心を濁してしまっていたら、この結構な御守護は頂けなかったと思う。だから、私は以後何かにつけてもふと浮かぶ神ごころを大切に、その達成に全力を費やすのである。そして思わない御守護を頂いてきたのである。
こうして、私は宵越しのさづけにならないようにおさづけをその日のうちに取り次がせて頂いて測り知れない喜びを味わわせて頂いた。感激した。その時、またふと浮かせて下さった。「今日のこの感激を、私は終生持ち続けるよう、そのために、この尊いさづけの理を毎日取り次がせて頂こう。もしも、一日に一回も取り次ぐことができなかったら、その日は夕食は食わない、夜も眠らないでお詫びしよう」そう心に誓った。誰と約束した訳ではない。 私自身、我が心に誓ったのである。
それを私は曲がりなりにもとにかく実行してきた。私は聖人でもなければ、賢人でももちろんない。凡夫の中の最低の凡夫である。夜になると腹は減るし眠くなる。夕食を人並みに食べて、時間がきたら眠ろうとすると、どうしても昼の間におさづけを取り次がせて頂いておかねばならん。駆けずり回ってもおさづけを取り次がせて頂かねばならん。だから、おさづけを取り次がせて頂くために随分苦労させてもらった。最初のうちは、人さんたすかって頂くためにおさづけさせて頂く、何でもたすかって頂きたい、そんな殊勝な純粋な気持ちであったが、探し疲れてへとへとになった時には、人さんたすかって頂く心よりも私が早く食べたい、寝たい、自分が楽になるために夜遅く病人探しをしていたこともあった。
おさづけの理を拝戴して後、三年間ほどは修養科の講師をさせて頂いていたから、おさづけの取り次ぎに苦労はなかった。おぢばには病人が比較的多いし、修養科の生徒さんに身上者が多いから、心定めの実行は容易であった。ところが修養科を辞めてから大阪布教に出て行って頭を打った。おちばにいるようには簡単にはいかなくなった。深更(しんこう)まで道をうろつきながら怪我人や身上の人を探し歩いたこともあった。とにかく、初心を貫き通してこられたということは、なんと私が幸運児だったことか。神様が、背後から私を支えて下さったことがひしひしと感じられる。
神様のお言葉に、「神は心の理にのって働く、精神一つの理に働く、神は心の理に働くほどに」という意味のお言葉があるが、人間の心定めが、まず第一だと思う。そしてそれをやり通そうという決意が大切である。心定めはよくても、三日坊主で辞める心なら神様の働きようがない。
そのころから、私はおさづけこそ、お道になってお与え頂いた宝物である、これを取り次がせて頂かなくて、何のお道といえるかと思っていた。
天理教最大の大節は明治二十年陰暦正月二十六日、午後二時の教祖の御身お隠れである。この直後、神意を悟りかねた当時の先生方が内蔵の二階へ集まって、飯降伊蔵先生を通じて親神様の思召を伺われた。そのお言葉の中で、「さあ、これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々これから先だんだんに理が渡そう。よう聞いて置け」 とおっしゃった。先生方一同、親の思召が初めてわかって、ようやく安堵の胸を撫で下ろされ、そして御葬祭のこしらえにかかった。と『稿本天理教教祖伝』には書いてある。
つまり、教祖は御自身の御寿命を二十五年もお縮めになって、人間子供可愛い一条からお姿をお隠しになり、私たちにおさづけの理を下さることになったのである。私たちが頂戴したおさづけは、親の寿命二十五年と引き換えに戴いたものである。言い換えたら、我々のおさづけには、親の寿命二十五年と引き換えた尊い理が含まれているのである。この尊いおさづけを頂いて、そのままにしておいてどうして神様に申し訳が立つか。
たすけてほしい、たすけて下さいとお願いばかりするところにたすけて頂く理はない。なんでもどうでもたすかって頂きたい、たすけさせてほしいと人をたすけるところにたすけて頂く理がある、と教えて下さる。戴いたさづけをしっかり取り次がせて頂くところに、たすけて頂く理があると信じたから、私は生涯おさづけを取り次がせて頂こうと心に定めたのである。といって、おさづけを取り次がせて頂いて、その度に病人さんがころころとたすかって下さったか、というと決してそうではない。むしろ、たすかって下さる人は稀であった。ほかには、おさづけを取り次いだ拍子に、それまでなんでもなかった腹痛が起きて七転八倒の苦しみになり、帰るに帰れず、往生したことがあった。けれども、私は、倦(う)まずたゆまずおさづけを使わせて頂いてきた。おたすけ頂けなかっても、おさづけを取り次ぐ度に神様にお祈りしてきた。
「神様、この病人に私のおさづけのこうのうの理を効かせて下さいと無理な願いはいたしません。今は私のおさづけが効かなくても私が七十歳になった時には、どうぞ願う心の誠の理に私のおさづけにこうのうをお見せ下さいませ。どんな病人でも、即座にたすかる理をお見せ下さい。そのかわり、これからも毎日欠かすことなく命のある限り、おさづけの理を取り次がせて頂きます」とお願いしてきた。だから、親神様は私のこの切ない願いをきっと受け取って叶えて下さると信じてきた。そのかわり、毎日々々飽きることなく怠ることなく、おさづけを取り次がせて頂いてきた。
神様のお言葉に、「捨ててはおけん、ほうってはおけんという理を積んでくれ」という意味のお言葉がある。神様はたすけてくれ、治してくれ、救ってくれとお願いしても、願い通りにはきいて下さらないかもしれない。「心通りで願い通りには受け取れん」とおっしゃるのだから。だから、神様はあんまりお願いしてもどうかと思う。神様の方が、いじらしくてじっと見ていられん、なんとかしてやらねばと働いて下さるほどの理を積むことが大切だと思う。
あいつはあんなにおさづけを使っているんだから、黙って見ているわけにはゆかん、ほうっておくわけにはゆかん、一つここは片肌脱いで働いてやろう、たすけてやろうと神様がじっとしていられんようになるよう、人間が仕向けてゆかねばならん。それがたすけて頂く理だと思う。銭は人間と同じで賑やかな所が好きだから銭同士が友達をつれて集まってくる、集まる理は大きいのである。天理教の布教師も同じだと思う。集める心だったら小さい。反対に集まる理を積んだ布教師にはどんどん人様が友達誘って集まって下さるようになる。一事が万事で一切のものはみな同じ理屈である。
とにかく、私は七十歳を過ぎたら、たすかる理を下さいと神様にお願いして、おさづけを取り次がせて頂いてきた。私は三十五歳の時におさづけを戴いたのだから、ちょうど人生の半分、倦まずたゆまずおさづけを取り次がせて頂いてきたことになる。
私は七十歳になるのが楽しみだった。七十歳になったら病人がたすかるのだ。七十歳になることに大きな希望と期待と喜びを持って、その日の来るのを待っていた。
ところが、誠に残念なことに、こんどの心筋梗塞の発病でこの実行が頓挫してしまった。おさづけを取り次ぎ始めてから三十三年七ヵ月と四日で、私のおさづけはストップしてしまった。何が残念といっても、このことが一番残念であった。ちょうど三十日、絶対安静で仰臥して、頭に去来するのはこのおさづけの頓挫であった。五十何日目かに、トボトボと歩けるようになった時、隣のベッドの病人さんに早速おさづけを取り次がせて頂いた。それから は堰(せき)を切った水のように、次々とおさづけをさせて頂いて、頓挫した期間中のうっ憤を晴らさせてもらった。

