天理教になると決心したものの、さて天理教が何をするものか、天理教になってどうするのか、皆目わからない。シベリアから持ち越しの栄養失調があったから、当分はその療養に専念するつもりであった。しかし人間は差し当たっての目的か仕事がなかったら、気が落ちつかない。私も天理教の内容がわからなかったら、療養に専念する目標がない。家内に、「天理教になったが、何をやろうか」と聞いた。まず、「修養科へ行け」と言う。修養科とは三ヵ月間通う天理教の学校だそうな、天理教になる人はみなそこへ行く。そこでは、朝から神様の結構なお話を聞かしてもらう。病気の人は病気が治るし、事情で悩む人は事情が解決するし、第一お話が良い。お父ちゃんもまず、その学校へ行かないと天理教はわからん。来月から行きなさい。その前に、大阪府庁へ辞職願を出しておかなあかんわ、と言う。家内は、私が一応は天理教になるとはいうても、何かの拍子にまた、天理教が嫌いになって府庁へ復職されたらたいへんだ。もう復員したと聞いた府庁から、課長の使いの人が訪ねて来て健康の回復次第、府庁へ出てきてくれと誘いが来ている。逃げられないようにするためには早く手を切らさねばならない。家内はそのことばかり気を遣っていた。それは今考えて気がつくことなのだが、部長や課長に会いに行くと言ったら、必死になって止めた。 大阪は戦災になっているから危なくてとても行けない、と私を脅す。
家内に一人で大阪へ行ったら、府庁まで行き着けないと脅かされたら、それが脅しではなく本当だと信じられた。辞表は、こんど課長さんの使いが月給を持って来られるから、その時私が渡します、と取り上げられた。なんぼ修養科へ行けと勧められても、三ヵ月も時間の浪費が勿体なくて仕方がない。どんな話か知らんが人の話は聞き飽きている。それに話だけかと思ったら拭き掃除もあるという。その時、女房は修養科の一期講師をしていて、続けて二期目であった。だから、私が天理駅へ着いた時、ハッピを着た女の人が何十人も集まっていたのは、担任の先生の旦那さんが帰ってくるというので迎えに付いてきていた、女房が担任している生徒さんたちであった。
女房が先生をしているような所だったら知れている。しかも天下の高等官 (戦前までは、官吏には高等官と判任官と地方の吏員など階級があった)が掃除をする、そんな馬鹿げたことができるものか。考えれば考えるほど、修養科は馬鹿々々しくなった。三十五歳にもなって、女房と同格の人の話を何のために聞かねばならんのか、やはり天理教は低級だなあ、なんで殊更(ことさら)そんな所へ行かねばならんのか。天理教の学校の先生をするなり、事務でもする所はあるはずだ、そこへでも勤めさせて頂こうかと女房に相談しても、女房は修養科一辺倒である。
とうとうその翌月の九月から始まる第七十七期の修養科へほうり込まれる格好になった。 修養科へ入ってみてびっくりした。おてふりというのがあった。天理教にこんな踊りがあるとは夢にも知らなんだ。しまった、やめようかと思った時にはもう遅かった。一組一番の組係になっていた。そんなのをやめたら先生の顔に泥を塗るのと同じや、まるで罪悪を積み重ねるように脅かされて、とうとう皆様のお伴をして三ヵ月つとめるようになった。てをどりを覚えるのには困った。最初、女房に教えてもらった。何にもわからないので、女房に手だすけを頼んだのである。てをどり用の大きな姿見の前で、よろづよ八首から教えてもらった。最初は馴れないものだから、猿が猿まわしでもするようで不格好だったのだろう、女房が横を向いて私には見えないようにクスッと笑った。それ以来、もう女房には教えてもらうまいと決心した。夜半女房が寝込んでから、私一人で姿見の前で、昼間学校で教えてもらったところを思い出しながら一人で勉強した。とうとう三ヵ月で完全に覚えた。
修養科できかせてもらう修養科のお話は、本当に良かった。心にしみこんだ。私が三十五歳の今まで歩んできた世界と全く異なったお話であった。私は、物や金や地位や名誉や、自我の欲望を充たすことに拘わった世界を歩んできた。金をたくさん積めば偉い、地位が高くなれば偉い、そして偉くなるためには他人を押しのけても、人を踏みつけても自分は立ち上がらねばならない。それが常識であり、その常識の世界を汲々(きゅうきゅう)と歩んできたのである。ところが、修養科できくお話はまるで違う。人間が病気や事情で苦しむのは、みな元はといえばよくとこうまんの我が心からである。しかも、そのよくとこうまんの邪心は、求めれば求めるほど際限もなく膨らんで、雪だるまのようにまとわりついて立ち上がれない。それが病気や事情の悩み事である。だから、神様はよくとこうまんは泥水や、求めれば求めるほど際限もなく、我が身を苦しめて諸悪の根源になるから、早くその心を立て替えなさい、とおっしゃる。心すみきれごくらくや、ここはこの世のごくらくや、我が心一つの理で、この世が極楽にも地獄にもなるのだ。たすかりたければ早くよくを捨てなさい、こうまんを取り去りなさい、それさえできたら、この世の中は立ちどころに極楽の世界と変わるのである。死んで極楽の世界はないのだ、生きながらこの世が極楽なのだ、と。
私は三十五歳の今まで、こんな結構な話を聞いたことはなかった。私の閉ざされた心は豁然(かつぜん)と開けた。先生方のお話は砂漠に水をまいたように胸の隅々までしみ通っていった。今でも、修養科で聞いたことが心に残っているから、余程その当時は感銘を深くしたに相違ない。これならたすかる。この話を大阪の人たちに聞かせてやってたすけてやりたい。これが、やがて後年大阪へ布教に行く動機となったのである。
修養科の毎日は感激の日々であった。今までの歩んできた世界とは別天地に生活しているようであった。
感激のうちに一ヵ月が経ってしまった。入学して一ヵ月、つまり九月三十日、突然発熱で寝込んでしまった。高熱だから学校へは行けない。心ならずも休まねばならなくなった。十月十日まで高熱は続いて休校した。十日に下熱の守護は頂けたが、それと入れ替わりに咳が出始めた。その咳がふつうの咳ではないのである。咳をしているうちにだんだんエスカレー トして止まらない。夜が眠れない。眠いものだからふとんに入っても暫くはいいが身体が暖まると咳がだんだんつのってくる。もう寝てはいられない。起きてふとんを丸めてそれに凭れかかって咳きこむ。苦しいから、全身から汗が吹き出る。女房が、寝る時に夜中に着替えるようにと寝巻を四枚も五枚も積み重ねてくれる。朝になると、その寝巻が汗で絞れるようになっている。修養科へ行っても咳きこんで人様の迷惑になるので控える。欠席がちである。本部へ参拝しようと、女房に付き添ってもらって出て行く。七、八歩行っては立ち止まって休憩、また休憩。おつとめをしているうちに、咳きこんで畳の上に噎(むせ)び伏す。満足におつとめができないのである。暫くは欠席を続けていたが、いつまでも休んでいる訳にいかず、咳きこみながら修養科は続けた。十一月の末に修養科は修了できたが、咳は依然として治まらなかった。
もう風邪ではなく喘息(ぜんそく)である。その年の終わりごろ、当時「よろづ相談所附属病院」というのがあって、その病院長が神尾知(かみおさとる)先生であった。神尾先生が往診して下さって、「あなたの病気は喘息ですよ。これは治りません。戦争で身体を痛めていますから、これから二年間は使いものになりません。二年間ほど寝ていなさい」と宣告された。正月が過ぎても治らな い。心臓が弱ってきて、歩行も困難になる。どうしたらたすかるのか、天理教だからいろいろと喘息についてお諭しを聞かして下さる。
一、親不孝である。
一、頑固で強情である。
一、心がきつくて厳しい。
一、理屈が多くて素直でない。
一、不徳である。
等々、みんななるほどと合点がいく。おっしゃる通りである。みな私に思い当たる。さんげしたら治して下さるというので、さんげの上にもさんげをして、さんげのし通しであった。 けれども、なんぼさんげしても喘息はちっとも治らない。さんげもし飽きて、もうどうでもいいわと思った。
院長さんが二年間寝てなさいとおっしゃったので寝るより外に途(みち)はないわい、と夜も昼も寝ていた。そのうちさらに一月の大祭になった。当時、私たちは宇佐分教会(現大教会)の詰所にいた。父が宇佐分教会五代会長のまま出直したので、妻が寮長のまま居残っていたのである。
そのころ、本部に柳井徳次郎という先生がおられた。この先生は青年のころ盲目になり、それをおたすけ頂かれて郡山大教会の初代会長平野楢蔵先生の命で、東京へ布教に出られて一代で中央大教会をおつくりになった偉い人であった。この先生が毎月二十六日、宇佐詰所の二階の広間で教会系統を問わず、おたすけ話をして下さっていた。
私が喘息で悩んでいた昭和二十三年の一月二十六日、春季大祭のその夜も、先生は宇佐詰所へ来て下さっていた。私は客間で先生の接待をしていた。控えの間で例の如く咳き込んでいると、柳井先生は私の顔をご覧になって、「あんたまだ咳が治らないのか」「はい喘息ですから治りません」「治る方法を教えてあげようか」とおっしゃった。治るものなら治りたいと思ったから、「どうしたら治りますやろ」と聞いた。柳井先生は直ぐこうおっしゃった。 「あんたなあ、今年から修養科の先生しなはれ。そしたらお父さん喜んで下さるわ」と。
修養科の先生をつとめたら、お父さんが喜んで下さる。私は父の在世中、天理教嫌いで父を随分苦しめた。今、その父の安心する天理教になって修養科も出た。私の肚づもりでは、今年春から天理高校の先生をつとめさせて頂こうかと思っていたのである。当時、天理高校の校長は竹村菊太郎先生であった。私が復員して修養科へ入ったと聞かれて、竹村先生は私の宅へ二回も三回も訪ねてきて下さった。「修養科を出たら、来年から天理高校の先生に来て下さい。信仰のある人を求めているのになかなかいない。ぜひあんたが来て下さい」と誘って下さっていた。天理教にはなったが、天理教で何をするのか分からない私は、渡りに船と高等学校の先生ぐらいならつとまらんことはあるまい。せっかく誘って下さるのだから、 来年の学年始めからつとめさせて頂こうかと思っていたら発熱である。そして喘息になった。これが神意であった。天理高校の先生をしてはいけない、というのが神様の思召だったのである。
学校の先生をするのがやはり、神意に添わなかったのである。柳井先生からそのお諭しを聞いた時、実はびっくりした。天理教になっただけでも親孝行したつもりでいるのに、まだ修養科の先生をしなければならんのか、修養科の先生はおたすけの経験がないとできない。そんな無経験な私がつとまるはずがない。柳井先生は無理なことをおっしゃるなあと、その晩遅く夫婦だけになってから女房に相談した。すると女房は、「それはいい、修養科の先生を二、三年勉強させて頂いてから大阪へ布教に行ったら、亡くなった父がどんなにか喜んで下さるか。それは良い勉強や、ぜひ修養科へつとめさせて頂きなさい」。 女房は大賛成である。私は喘息が苦しいから、喘息さえ治して下さるのなら何でもやる。できてもできなくても心定めはする。
とうとうその晩二人の相談が決まった。夜遅くかんろだいに参拝してお誓い申し上げた。四月から修養科の講師をつとめさせて頂きます。それまでに二月中で検定講習を終わらせて頂きますから、この喘息をたすけて下さい、とお願い申し上げて帰った。
その晩は比較的遅く床に就いた。翌朝、目が覚めてびっくりした。夜中に一回も咳はなかった。重ねておいた四、五枚の寝巻はそのままであった。喘息は一夜の間に、完全に御守護頂けたのである。以来三十五年、喘息のかけらもなくお連れ通り頂いている。こうして、昭和二十三年の四月から修養科専任講師をつとめさせて頂くことになった。思えば、すべて親神様のお計らいであった。風邪を引いたのも、咳で苦しんだのも、みんな親神様がたすけてやりたい一条からのお手入れであった。風邪も引かず咳もなく高校の先生を勤めさせて頂いていたら、私の運命は随分変わったものになっていたことだろう。身上事情は天の手紙、まさに天の手紙であった。身上を通して神意が悟れたから、運命のより良い展開ができたと思う。