苦労を求めて、私は大阪へ布教に出てきたのであった。三日でよいからたすけ一条の苦労というものを体験させて頂きたい。生涯お道を通るのに、自分で体験してない教祖のひながたは人様には伝えられない。自分で体験しない道は人に説けない。三日さえ苦労させてもらったらよい、そう思って布教に出てきたのである。だから、貧乏はもちろん覚悟の上であっ た。むしろ貧乏したくて、たすけ一条の上の貧乏を味わいたくて布教していたのである。貧乏の苦労は決して私に重荷にはならなかった。むしろ楽しみであった。これが教祖のお通り下さったたすけ一条の苦労の片鱗かと思うと、うれしくて有難くて、生き生きとして歩ませて頂いていたように思う。
私はこの今の環境を子供にも味わせてやらねばならないと思った。そもそも芝家の元をたずねたら、父が芝家の信仰の初代である。生粋(きっすい)の浪華(なにわ)商人として二百年も三百年も続いてきた伝統の家業を一擲(いってき)して道一条になった。よほどの決意だったと思う。一時の思いつきやその場の難のがれではなかったはずだ。
商売は隆盛に栄えている。親戚の大反対に遭う。その中を道一条に踏み切ったのは、背に腹かえられない事情だった。子供は死ぬ、家内は死ぬ、病人の絶え間がない。外へ出て人の挨拶を受けるのが嫌になったと、後年父は私に述懐したことがあった。お道によって、家運の立て替えをするより外に途はなかった。その父の思いを、私は子や孫の代に伝えてゆかねばならないと思う。それが、父と子をつなぐ私の責任だと思った。父が道一条になった思いを孫子に伝えて、再び世界並みのつとめはしない、芝家の血を引く限り商売はしない、勤めには出ない、道一条を通らせて頂く家憲を伝えてゆくのが私の責任である。常々に私はその思いでいた。
毎月二十六日におぢばへ帰るが、昭和二十七年、長男も四歳になっていた。この子にも今の天井のない、荒筵(むしろ)の布教生活を身に覚えさせておかねばならん、大きくなってからでは遅い。私はそう思ったので、大阪へお父ちゃんと一緒に行こうかと誘った。けれども、私がいくら誘っても、「いや」と言う。いくら誘っても、行くとは言わない。考えてみたら、なるほどと思う。
私は、この子にお父さんのつもりでいるが、この子にとっては、それは有り難迷惑である。 月に一回か二回ぐらいしか現れない。しかも、時たま現れても抱いてくれたこともないし、可愛がってくれたこともない。子供から見ると、どこかのおっさんである。そんなおっさんと一緒に訳のわからない所へなぞ行けるはずがない。お母ちゃんとだったら何処へでも行く、 お父ちゃんとだったらどこへも行かない。どうしたら行くと言うだろうかと思案の末、動物園へつれて行ってやろう、と言った。動物園へつれて行ってくれるのだったら大阪へ行くと言う。まんまと騙(だま)したつもりで大阪の布教所へつれて来た。二日でもよい、三日でもよいこの天井のないあばら屋で筵の上に寝かせてお粥を食べて、四つの時から布教体験を味わしてやろうと思った。その当時には二、三軒の信者さんやおつき合いしている家もあったので、朝起きてお粥を食べさすとその家へ連れて行って、預かってもらう。私はにをいがけやおたすけに行く。夕方になって帰ってくると、この子をもらってくる。時には日が暮れて遅くなる。子供を迎えに行ったら、もう寝ている時がある。寝ている子供をもらって帰る。そんなことを続けていた。
と、ある日のこと。この子供が、「お父ちゃん、動物園へいつ行くのや」と言う。忘れてくれたとばかり思って安心していたのに、この子供は覚えていたのである。しまったと思ったが、子供には嘘はつけないから、いついつの日につれて行ってあげると言った。子供はそれから勘定し始めた。忘れてくれたらいいものを。毎日々々勘定した。私はその日に雨が降ってくれたらよいのにと、内心期待していた。
とうとうその日が来た。雨どころか朝から快晴である。一日動物園で過ごすのはまことに勿体ないが、約束は守らねばならない。持ち金を勘定したら全部で九十円あった。動物園は公共の施設だから、入場料は大人でせいぜい二十円か三十円ぐらいだろう、子供は無料だし、市電は片道十円だから、九十円あったら、どうにか間に合う。喜んでいる子供を連れて園へ行った。動物園の南正門で入園料が二百円と出ている。驚いた。これは何かの間違いだろう。そう思って、北の入り口へ行った。そこでも二百円と掲示してある。また元の南の入り口へ戻った。係の人に、なぜ入園料がこんなに高いのかと尋ねた。どこかの新聞社が、動物園とタイアップして園内で催し物を開いている。その入場料も加算されて二百円になっている、とのこと。せっかく来たが入れない。子供は入りたがって、もじもじしている。白熊がノソノソと歩いているのが遙(はる)かに見える。お父ちゃん、早よう入ろうなと催促する。「今日はあかんわ、入られへんわ。今日はなあ、中で展覧会していやはるねん。子供が見てもわからんねん。だから今日は子供は入られへん」「そんなことないでお父ちゃん。あれ見てみいな、子供もたくさん入ってゆくが」。
入園口では、大人に連れられた子供たちが、一列に並んでたくさん入って行く。なんとかして、この場所から一刻も早く逃避せねばならん。私は子供の手を取って引きずるようにその場を去ろうとした。子供の立場になって考えたら、それは無理である。月に一回か二回しか会わないお父さんに連れられて大阪へ出て来たのも、この動物園へ来るためだった。大阪へ来て、やっと動物園へ連れて来てもらえるようになって今日の日を指折り数えて待っていた。その動物園へ来て、熊や象が目の前にいるのである。待ちに待って、ここまで来て、どうして帰れるか、帰ろうと言う方が無理である。だから必死である。お父さんに掴まれている右手を振り解こうとして、懸命の抵抗をする。ついにそれが叶わないとなると後ろを振りかえり振りかえり。私は私で、早くその場を立ち去らねばと子供の右手を持って引きずるように。まさに親と子の葛藤(かっとう)である。
あまり子供が後ろをふり向くものだから、足を滑らせて転倒した。右手は私がしっかり掴んでいるから、半回転して左の頬(ほお)が地に擦(す)れた。下はコンクリートである。しかも滑り止めのためにブラッシングしてあるからたまらない。子供の左の頬からみるみるうちに、血が滲み出た。つける薬も持っていないし、消毒薬ももちろん持ち合わせていない。咄嗟に子供を抱いて、血の出ているほっぺたを私の舌でなめてやった。唾液は消毒の役目をすると聞いていたから。その時にかわいい我が子を抱きしめて、たった二百円の金がないため動物園を目の前にして子供の思いを叶えてやれない。子供の頬っぺたをなめてやりながら、たすけ一条の苦労とはこのことか。何かはわからないが、難問題が解けた時のあの爽やかさに似たものが私の胸をよぎった。
教祖のひながたの中に、神一条になられて貧のどん底のころ、村の秋祭に末女のこかん様が晴衣がなくてお渡りに加われないで、破れた壁の隙間(すきま)から寂しそうにお渡りを御覧になっていた。そのかわいい娘の寂しい姿を、後方から御覧になっていた親である教祖のお気持ちが私には解らなかった。それがこの時にやっと私に答えが出たように思えた。そうだ、これだったのだ。通ってみて初めて味わえたたすけ一条の苦中の娯(たの)しみだった。目の前に再建されたばかりの通天閣が高く聳(そび)えていた。お前は動物園へ入れなくても、もっともっと大きな徳を神様はお与え下さるよ。そう心の中で呟(つぶや)いて明るく立ち上がった。
この子は親と共に谷底の苦労の道を味わってくれた。本人が自覚しているか否かは知らない。けれども、朝も晩もお粥を食べておかずなしに過ごし、天井のない家で筵の上で暮らした事実は現実に、この子の身についた徳として魂に刻まれていることと信じる。あれほど期待した動物園には遂に行くことが出来ずに母の許へ帰って行ったが、通っただけが道であって、この子の生長の過程の中でこの子の道としてきっと生き続けることと私は信じる。
後年の話になるが、この子が小学校四年生の時、二学期が始まって間のない九月の中旬、その日は月曜日であったが、朝起きたらこの子の顔が腫れていた。そのころは、まだテレビがあまり普及していないころで、日曜日にこの子は一日中隣の家のテレビを見せてもらっていた。 目が腫れているのはその関係だと思って、これからはあんまりテレビを見ないようにと注意していた。お昼過ぎ、学校から帰ってきた時は腫れも引いて正常な顔をしていた。翌日朝、また腫れている。これは正常でないと思い近くの医者へ連れて行ったら腎臓病である。一軒だけでは心もとないので、泌尿器専門の医師へつれて行った。血尿が出ていて血圧は大人並みに高く重態である。すぐ入院を要すということだった。神様の御守護を頂かねばならないと思って心定めもして一生懸命にお願いした。しかし三日たっても、四日たっても快くなるどころか、ますます腫れがひどくなってくる。この上はおぢばの御守護を頂かねばならないと、妻は有り金をすっかり浚(さら)えてかんろうだいにお参りに行った。午前十一時ごろ、もう今ごろはかんろだいにお参りしているころだろうなあと思っていた時である。隣の部屋に寝ていたこの子が、私が書き物している所へ来て、「お父ちゃん、おしっこが出て仕様がないねん、なんでやろうなあ」と言う。顔を見てびっくりした。朝から腫れていた顔が見違えるように腫れが引いている。この子には、「神様がたすけて下さるのだよ。おしっこはうんとたくさん出たらいいのだよ」と言った。夕方、妻がおぢばから帰ってきた時は、妻が仰天するほど腫れがなくなっていた。翌日、妻がこの子をその医者へ連れて帰って来て言うのに、お気の毒に看護婦さんがお医者さんに叱られているのや、この子の尿と他の人の尿と間違えた、尿の中に蛋白がちっとも出てない。昨日まで真っ白になって先が見えないほど出ていたのにこんなはずはない。試験管を他の人のと取り違えたのだ、と今日はわからなくなった、明日もう一度来なさいということだった。次の日行ったらやはり同じ。たった一週間学校を休んだだけで、長男はそれで御守護頂いた。たすけて頂いた。そんなところにも、大難を小難にお連れ通り頂ける理をこの子供は子供ながらに作らせて頂いたのだと思う。その後、私は子供さんの腎盂炎(じんうえん)のおたすけをたくさん経験させて頂いたが、この病気の特徴は長期間の療養である。私の子供のようにたった一週間の欠席で完治した例は絶無であった。子供心の無意識のうちにでもひながたを歩ませて頂いた道の理は、やはりこの子供の徳として身に備わったものと私は堅く信じている。
昭和二十九年の二月。私が布教に出て二年と十ヵ月後に、妻も布教所へ来て布教に参加することになった。生後四ヶ月余りの次男を連れて来た。しかし、妻は心臓病で蒼白を通り越して黄色い顔色をして子供の面倒を見るのが精いっぱいで何もできない。重い物は持てないので、共同水道からバケツで水を運搬するのも、みな私がしてやらねばならん。そんな中でも、精いっぱい布教に協力してくれた。真冬の寒い中でも、私らの布教所ではもったいないので火の気はなかった。しかし、寒い時でもお客様が参拝して下さる時がある。そんな時は、妻はこそっと家を出て炭を買ってくる。炭屋さんで紙袋に入れて十円分、二十円分、三十円分と三つ盛りぐらいに並べてある。妻はその炭を十円分、時には二十円分を買ってきて七輪で炭火を起こして参拝客に、さあどうぞお当たり下さいと出すのである。妻はお道になるまでは女中なしに過ごした日はなかった。浪華のこいさんがよくそこまで心を落としてくれたと私は感謝した。一事が万事、貧窮(ひんきゅう)の中を通らせて頂いたが、妻が貧窮に不足を言うたことがなかった。これが何よりも有難かったと思う。もしも妻が不足したり貧乏に堪えられなかったら、私は恐らく布教できなかったと思う。道の台が盤石の強さであることが布教の最大の支えとなる。私は幸運にも、妻のその大きな支援を得ることができた。だから、布教を中断することなく、最後まで貫徹することができたのだと信じる。この道は文字通り、二人三脚でないと通れない。
ある時、大きな病院へおたすけに行っていた。そこで、どこでどう間違うたのか、いつも通い馴れている廊下を外れて急に広い待合室に出た。そこは三方の壁に腰掛け用の板を打ちつけてある、ちょっと変わった待合室であった。その待合室には子供さんが股を広げてギブスで固定してある。したがって、抱きかかえられている人ばかりであった。大きい子供で四、 五歳、小さいので生後一年前後の子、大抵お母さんらしい人が抱いている。それがたくさんで二十人近くもいた。不思議に思って、傍の婦人に聞いた。ここは何の部屋か、その婦人がここは整形外科で股関節脱臼(だっきゅう)の待合室だと教えて下さった。さらに、「これは妊娠中か産まれる時かその後か、赤ちゃんの股関節が外れているからそれを矯正するためにギブスで固めて、六ヵ月すると治る。ここはその待合室だ」と言う。その時、私の次男は生後一年半近くなっていたのに、まだ立てないし、もちろん歩けない。私ら夫婦はおたすけに一生懸命で我が子に気を配っている暇はなかった。この子はちょっと遅れていて、歩けないのだぐらいに軽く考えて、おたすけに心を奪われていた。この股関節脱臼の子供さん方を見た時、そのことを先ず思い浮かべた。あの子が立てないし、歩けないのはこれだ。股関節が脱臼してあるからだ。傍らのご婦人に、股関節脱臼が素人でわかる方法はありませんか、と訊(たず)ねた。するとその婦人は丁寧に詳しく教えて下さった。二人が要る。子供を仰向けに寝かせて、一人が頭を持ち一人が足を持ち、踵(かかと)を揃えてそのまま尻へくっつける。曲がった足の関節を左右へ開く。足の外側が畳についたら、この子は外れていない、正常です。もし、畳につかなくて泣いたら外れているので、すぐわかります、と。私は一目散に帰った。ちょうど妻も子供もいたので、早速子供を裸にして教えてもらった通りにした。妻に頭を持たせて膝を開いたら、両側が畳についた。全く異状はなかった。しかし、その時に気がついたが、この子の大腿部は皺だらけである。赤ん坊や乳幼児の股は肥って、輪がはいっているほどになっているのが普通なのに、この子供の股は皺だらけである。この時初めてこの子が栄養失調であることがわかった。
この子が生まれる時、妻は心臓病に再度の妊娠で全身が腫れていた。臨月で出産が近いので、よろづ相談所附属病院の産科に連れていったら断られた。よくここまで放っておいた、生命の保証は出来ません、と。頼みこんで、やっと入院させて頂いた。その代わり、親か子かどちらか一人でも生命がたすかったら、医者の大手柄やと思ってくれるなら、という条件つきであった。出産後、母親は間もなく気がつかなくなった。
生まれた子供は産声を出さないほどの弱り方で、生後二、三日の間に二、三回もチアノーゼになるほどで、お乳を飲む力がない。母親は二日ほど経つと気が付いてくれたが、お乳を飲ませる力がない。子はお乳を吸う力がない。だから痩せてゆく一方である。神様は人間をお創り下さる時に、裸、跣(はだし)でこの世に出しては下さらない。どんなに貧しい橋の下の住居に産まれてくる子供でも、おむつの二枚や三枚は用意してある。産まれて三日も経てば、お母さんのお乳が膨らんでお乳が出てくる。餌はついてくる。それが神様の親心である。だのにこの子はその親心のお乳を頂かれない。よほどの不徳である。不徳な子は若死にする。かわいそうに、この子は短命である。三十歳が天寿、四十歳が天寿ならば、天寿一杯の生命を頂けるようにしてやるのには、どうしてやったらよいのだろう、とそんなことを考えながらお参りしていた。教祖殿でお願いしている時、ふと浮かんだ、つなげばつなぐ。生命をつないでほしければつなぐことだ。ふと浮かんだ神心であった。そうだ、つなげばよい。この子の分をつながしてもらおう。この子はお乳が飲まれないのだから、ミルクを作ってやらねばならない、ミルクは当然この子の分でこの子の飲み代である、そのミルクをこの子のお供えとしてかんろだいにつながしてもらおう。これは、この子の真実かけ替えのないつなぎであるはずだ。それをつながしてもらう。そしたら、この子は何を食べるか。ミルクの代用品として重湯を飲ませた。白米を粉末にして炊く、それを晒布(さらし)で漉(こ)して、塩と砂糖で味付けし野菜や果物のジュースなどを入れて飲ましていた。その代わり、この子の分として毎月ミルク代はかんろだいへつながせてもらっていた。お陰様で、この子も生後一週間ほど経ったら、砂糖湯をチビチビ吸える力がついてきた。それからはこの重湯を飲ませていた。一年経っても、一年半経っても、この子は重湯であった。これだけでは栄養が足りなかったのである。普通赤ちゃんは太腿(ふともも)に輪があるほど太っているのに、この子は輪どころか皺だらけである。その時に初めて、この子が栄養失調であることに気がついた。立つ力もなかったのである。
親として、愛しい子供が栄養失調であるとわかった時、気持ちは平静ではいられない。やはり、動揺を禁じ得なかった。
そんな時、ラジオの放送を聞いた。求人の放送であった。そうだ、私も会社へ勤めたらいいのだ。勤めたら給料がもらえる。おつくしもできるし、ミルクも買ってやれる。職場でにをいがけもできるし、おたすけもできる。これは良いことだ、なぜこんな良いことに今まで気がつかなかったか。早速履歴書を書いた。翌日はそれを持って出掛けて行った。
東成職業安定所は、鶴橋の下味原交差点を北へ上った東側にあった。私は例によって歩いて行った。石段をのぼって玄関に立った時である。ふと我れにかえった。私は妙な所へ来ているなあ、ここは仕事を探す所じゃないか、私は人だすけに来ているのに、と思った。その時私の足は後ろを向いた。私が向いたのじゃないと思う。神様が向かされたのだと思う。そのまま元来た道を歩いていた。石段を降りながら思った。
昔、若いころ大阪府庁に勤めていた時、役所から帰って夕食時にその日の仕事の話をする。私の仕事は配給統制の仕事であった。戦争が年ごとに熾烈(しれつ)になって配給統制が始まった初期のころである。年齢の割合に責任ある仕事をしていると、父も安心すると思って話していると父は、「あのなあ、わしはお前が世界並みでどんなに出世してくれても、地位が高くなっても、名誉を得ても、めったに喜ばへんのや。それよりもなあ。どんなに貧乏していても、たとえ橋の下で暮らしていても人さんをたすけていてくれたら、神様の御用をしてくれてさえいたら、乞食していてもわしはうれしいのや。お父さんはなあ、そんな信念や、よう覚えておき」と父に叱られた。その言葉を思い出していた。昨日書いた履歴書を封筒のまま破っていた。
それからまたおたすけに歩いた。
私にとって、この時は大きな壁だったと思う。道は遅々(ちち)として進まない、子供は栄養失調、この先どうなるのやろう。人間思案を出したらお先真っ暗である。月給をもらえる所へ勤めようとして勤めていたら、今日の喜びはなかったと思う。父の言葉を思い出して神一条に徹し切ったら、その壁は脆(もろ)くも崩れて、向こうには神様が手を受けて待って下さる陽気ぐらしの世界が拓けているのである。その後も私はたくさん経験した。事情でも身上でも、もう駄目だ、人間思案では行き詰まった。その時、神一条に凭れ切ったら、運命は急に好転することを知った。この時の体験は尊い教訓であった。
ミルク代としてこの子の分をかんろだいにお供えしたのは、僅か一ヵ月に数千円であった。 けれども、それは自分の命を養う餌代であった。だからこの子にとっては全くかけ替えのない真実であったと思う。その真実を神様はお受け取り下さって、その後は病気らしい病気も知らずに成長して結婚し、長男までお与え頂く身の果報に浴している。乞食の背中の子供に教祖が御自身のお乳を飲ませておやりになった真実誠のひながたを、私はこの子供の上に偲(しの)ばせて頂くのである。貧窮貧乏のどん底でも真実誠の心があったなら、つなぎ運びは不可能でないことを教えられた。