昭和二十六年五月一日。五月晴れの良いお天気であった。当分の食糧として米二升、電車賃を含めて金五百円。これを懐中にして古いコウモリ傘を持って出て行った。これが私の布教の始まりであった。
落ち着く先は定まっていた。昔の関係の方で母一人、子一人の寂しい家庭があった。一人子は男で肺結核であった。私が修養科につとめていたころ、男の子は二十歳過ぎで家でブラブラ養生しておられた。気の毒なものだから、修養科の休日にはきまってここへ私がおたすけに行っていた。修養科では肺結核は不治の病ではなかった。よくたすかって元気になられる姿を見聞しているから、この息子に修養科へ行きなさい、きっとたすけて頂けるからと勧めていた。息子はもう一人前であるのに、母一人子一人で育ったものだから母親一辺倒で母から離れられない。母親はもう六十に手の届く老いの坂路であるのに、働いて息子を養わねはならない。それも普通の働きでは息子に栄養のある食物を与えられないと闇商売をやっている。朝早くから遠方へ買い出しに行く。それも普通の食糧品ではない。喫茶店や高級料理店にあるような物を買ってくる。肩に背負えるだけ背負って帰ってくる。儲けたお金は全部この息子の食糧になる。牛肉になったり、卵になったり、魚になったり、当時一般庶民には手の届かないような高価な物でもこの息子の口には入るのである。そんなことをしていてもたすからん。みんな息子の痰に化けてしまう。痰製造の元を作っているようなものだ。そんなことはやめて、親子で修養科へ行きなさい。神様にたすけてもらわねば誰がたすけてくれるか。私が千万言を費やしても、この親子は聞かない。私らは医者に頼っていますねん。薬と注射に頼っていたら、薬と注射がたすけてくれますねん。たすかってから修養科へ行きますわ。かえってくる返事はいつもきまっている。たすかったら修養科は行かなくてもいい、たすかるために行くのや。いくら勧めても、この婆さん、医者が頼りやと言う。しまいには、私がおたすけに行くのを胡散臭そうにする。ありがた迷惑の顔をするようになった。けれども、私はあきらめなかった。休日にはきまって出掛けて行った。
昭和二十五年元旦、おたすけに行った。様子が違う。いつもと勝手が違う。婆さん泣いている。息子が死んだと言う。この間の休みの折に来た時は、近ごろ大分元気になってきたと喜んでいたやないか。それにどうしたのや。昨日の大晦日(おおみそか)に息子は表で日向ぼっこをしていた。そしたら急に喀血して窒息して死んだのや。と言う。翌日のお葬式に行って、手伝ってあげた。お葬式が済んだら、婆さんと私だけ。
婆さんこれからどうするのや。兄妹もないし近い親戚もない。亡くなった主人の弟の家が来なさいと言うてくれるが、義理の所へも行かれんし、困っていた。私が引き取ってあげようと申し出た。私は、この老婆に修養科へ入れてお道を知らせてあげたかった。心をたすけてあげたかった。この老婆は、金一条、物一条の考えしか持ってない気の毒な人間一条の人であった。金さえ儲けたらいい、手段は選ばない。闇をやっても何をやっても儲けさえしたら良い。肺結核の息子に闇で儲けた金で牛肉を買って、その絞り汁を飲ませたらたすかると信じきっている。闇で儲けた金で人の幸せがどうして作れるか。闇の金で、牛肉の絞り汁を飲ませて肺病がたすかるか。肺病がたすかるためには、親神様がお勇み下さるような心にならねばたすからん。金さえあったらいい、栄養分さえ摂ったらいいというものじゃない、といくら説いてあげても、この婆さんには通用しない。金を儲けたらいい、ご馳走を食べたらいい。そのためには手段を選ばない。それがこの婆さんの信条であった。この婆さんの心を入れ替えてたすけてあげたいと思っていたから、身の振りかたを決める時に私が引き取ってあげると言った。この婆さん、ある占い師に相談に行ったら私の方へ行けと卦が出たらしい。
婆さん引き取ってすぐ修養科へ入れた。修養科で神一条の世界のあることを初めて知った。婆さん悲嘆に暮れた。息子と共に修養科へ行けと勧めてくれた時に、なぜ行かなかったか、修養科へ来ていたら、息子を死なせるのじゃなかった。あんなに勧めてもらった時、なぜ素直になれなかったのか。地団駄(じだんだ)踏んで口惜しがった。組の中でも肺結核の人がいた。それが修了の時にはみんなたすかって元気になっていた。そんな姿を自分の目で見て、息子もここへ来ていればあんなにたすかったものを、と思えば自分の愚かさが身にしみて口惜しがられた。この婆さんにも神様の世界があることがわかって頂いた。
それにしても、私はあんなに神様のお話を説き、修養科を勧めていたのに承知してもらえなかった。たすけられなかった。何と不徳なことか、情けなく思ったことであった。
とにかく婆さんは勇んでくれた。神様の世界のあることを知って、婆さんは生きかえった。もう大阪へは帰らない。一生おぢばで神様のお膝元で暮らすということになった。大阪の家は要らないから、勝手に使って下さいということになった。これが布教所に使わせて頂く家となったのである。
早速その年昭和二十五年九月五日に、神様をお祀りさせて頂くことになった。婆さんの家は大阪の長柄と言う所にあった。戦災者救済のため大阪市が建てた復興の、住宅とは名ばかりの小屋であった。私が落ち着いたのはこの家であった。この家が私の布教の根拠地になったのである。六帖に三帖の二間で、六帖(じょう)に一間(けん)の押し入れがあった。それを上下に区切って、上の方が神様、下の方を押し入れにした。天井はなくて屋根だけである。その屋根も、私が昨年台風の後で、飛び散ったトタンを拾ってきて打ちつけたので、前の釘の跡が大きな穴になって残っている。下から見ると、その穴を通して空が見える。雨の日には漏れて家の中で傘をさしていなければならない。なんぼ雨が漏っても心配はなかった、床に畳を敷いていなかったから。先住の婆さんは、肺病の息子に栄養物を食べさせるために畳代まで惜しんでつぎこんだのである。床に荒筵を敷いたり、上敷を敷いたり拾ってきたものを敷いていた。二年半ほどは畳なしであった。先住の婆さんが空の長持を一つ残しておいてくれた。雨降りの烈しい日には、この中へ入る。長持(ながもち)の蓋は外側へ出ているから、雨は中へは入ってこない。隅に竹を立てて、つっかい棒にしておくと空気が通う。長持の中で起居していた。そのうちに大阪市がトタンを取り替えてくれた。
落ち着いた日に明日から何をしようかと思った。
状況偵察に周辺を回ってみた。道路が汚い、ゴミ捨て場のように汚れている。天理は修養科の生徒さんが歩きながらでもゴミを拾っているから、天理の道路はどこへ行っても美しい。天理の街を見馴れていると、大阪へ来たら目につくのは道路の汚いことだ。明日からこの道路を掃除してやろう。竹箒(ぼうき)を買ったら一本十円だった。翌日は朝暗いうちに起きた。見当をつけた道路の掃除にかかった。ゴミだらけである。あるわ、あるわ。一番多かったのはウドンの割箸であった。当時、砂糖は配給品で貴重だった。一般には甘味料で味付けした、キャンデーというのがあった。アイスキャンデーである。大人も子供も、甘味料で味付けしたアイスキャンデーをしゃぶっていた。その芯がウドンの割箸であった。しゃぶり終わったら、その割箸をポイと捨てる。だから道路はこの割箸だらけである。昭和二十六年という年はまだ敗戦の物心両面の衝撃が深刻に残っていたころである。明日のことを考えるよりも今日生きてゆかねば。生きるためには人の物を盗ってでも、闇をしてでも食うてゆかねばとなって闇が横行した。猫も杓子(しゃくし)も闇である。闇をしなければ生きてはゆけない時代であった。そんな世相だったから、道路の掃除をする人など全く稀有(けう)であった。したがって、すぐゴミの山になる。ちょっと箒を動かしただけでゴミの山になる。掃除がはかどらないでいるうちに夜が明けてくる。白けてきたら、もうリュックを持った人や、荷物を持った人が通る。買い出しの人である。人が往来するようになると掃除はやめる。ゴミを一ヵ所に集める。そのゴミの山から木屑だけ選り分ける。木屑といっても殆(ほとんど)どがウドンの割箸である。これが薪になる。一人分のお粥だったら余る。掃除が終わったらこの薪で一日分のお粥を炊く。そして朝づとめである。朝づとめが終わってからシャブシャブのお粥を頂くのである。お粥を食べ終わったら箸を食卓の上に立てるのである。食卓と言っても、私が作った食卓である。ミカン箱を拾ってきて、それを分解して板にする。これにカンナをかけると、薄いけれどもキレイになる。棒切れを拾ってきてこれにカンナをかける。適当の高さに切ると足が出来る。これを組み立てたら立派な食卓が出来る。ちょっと狭いけれどもこれが食卓にもなれば子供たちの勉強机にもなり、お客さんとお話の茶台にもなるし月次祭には御飯の台にもなる。二人の男の子はこの台で勉強してきたのである。ずいぶん重宝(ちょうほう)で便利なものであった。昭和三十六年、教会になるまで、ちょうど十年間、この台を食卓、机、テーブル万能に使ってきた。
この食卓の上へ箸を立てて指で上をおさえて立てる。「南無天理王命」と称えて指を離す。 箸は倒れる。倒れた方向がその日のにをいがけに歩く方向になる。南へ三日も四日も続けて倒れることもある。神様の思召は南にあるなあ、と南へ南へと行くのである。当時は市電もバスも十円であったが乗ったことはなかった。布教とは歩くことだと信じていた。だから歩いた。歩いて歩いて歩きまくった。犬も歩けば棒に当たるという。人間様が歩いたら何かに当たるだろう。まして、俺は天下の布教師だ。天理教の布教師様が歩いたら、向こうから当たりに来るに相違ない。そう信じて歩いた。けれども大体は神様の話は聞いてくれない、断られてばかりだった。
私が初めてお道のお話を聞かせて頂くようになったのは、修養科生としてであった。修養科でお話を聞かせて頂いた時の感動は、終生私の胸に刻印されて忘れ得ない感銘であった。三十五年の人生で、初めて経験した別天地であった。こんなたすかる世界があったのかと思った。よし!この教えならみんなたすかる。この教えを聞かない奴はよっぽど馬鹿だ、阿呆にはわからんかも知れないが、普通の常識のある人間ならきっと聞く。この教えを大阪中に広めて大阪中の人をたすけてやろう。そう修養科生の時に思っていた。
ところが大阪へ布教に来て毎日々々足を棒にして歩いているが、この結構な話を聞いてくれない。途中まで話をすると、うちは真宗ですからもうよろしいわ、と言い棄てて奥へ入ってゆく。感心するだろうと思って一生懸命に話しているのに、うちは禅宗ですからお断りしますと、ぽいと二階へ。途中まで聞く方はまだましだ。天理教ですがと言っただけで、もう結構ですわと断られる。
なんでこんなに神様の話は聞けないのかなあ。そのくせ、世の中の人はみんなたすけを求めているのに、たすかりたいと願わない人は一人もないはずなのに。私の話が下手だから聞かないのか、いや、そうじゃない、天理教というただけで断るのだから。どうしたらにをいというものがかかるのか。歩き疲れて公園で休む。どうしたらにをいがかかるのかなあ、どうしたら人が話を聞いてくれるのかなあ、となんぼ思案したことか。そのうち思案に余ったころ、ふと浮かんだ。昔、東本大教会の初代中川よし先生が東京へ布教に行かれ、上野の山で寝起きしておられたそうだが、毎日歩いても歩いてもにをいはかからなかった。何十日も歩かれた時、ある日子供をおんぶしている婆さんに行き会われる。その子供が丹毒(たんどく)という病気で医者が一週間の命だという。その人が初めて神様のお話を聞いてくれる。これが中川よし先生の最初のにをいがけであった。
そんなことを本を読んで知っていた。それを思い出した。俺もこんなににをいがかからないのは中川先生と同じだ。中川先生のお徳にあやかって、子供の病人を探してやろう、子供からにをいがけしてやろう、子供探しだ。それからは一軒々々歩くのはもうやめた。子供探しである。これは案外楽であった。道を歩いていたら、子供をおんぶしているのが自然に見つかる。探す必要はない。しかも子供をおんぶしている人はご婦人である。ご婦人は私より大体背が低い。だから背中の子供の顔を覗きながら歩ける。苦労しなくても顔が覗けるから世話はない。子供をおんぶしている人を探して近づいて覗きながら街を歩くのである。けれども、さて子供の病人を探すとなると、これもなかなか大層であった。歩いても歩いても見つからなかった。ちょっとぐらい怪我したり、顔にクサでも出来るか腫れ物でも出来てあったら良いのに、そんな子供は一人もいなかった。にくたらしいほど達者な子供ばかりである。もう歩き疲れて、辛抱切らしたころだった。その日も箸の倒れる方向で行く先を教えてもらって東へ行った帰り道、夕方だった。樋之口町(ひのくちちょう)という道幅の狭い通りを歩いていたら、子供をおんぶした婆さんが通りへ出てきた。すれ違った時、ふと見たら子供の顔が真っ赤に腫れている。男の子で、お婆さんはネンネコを着ていた。ネンネコの中で子供の眼が細くなるほど腫れている。しめたっ、と思った。とうとう私も中川よし先生のお徳にあやかれた。きっとこの子は丹毒という病気に相違ない。ちょっと行き過ぎたが戻って、「お婆さん、お婆さん」と声をかけた。振り向いた婆さんに、「お宅のお孫さんですか、どこが、どんなに悪いのか知りませんが、かわいそうにえらい腫れておられますなあ、お気の毒に」と私は話しかけた。ご親切にようたずねて下さった、と感謝の返事がかえってくるかとのかすかな期待に相違して、この婆さん、きっと形相を変えて私の顔を睨(にら)み据(す)えて、「けったいな人やなあ、うちの孫にけちをつけるのか、この孫は腫れてるのと違うわ、肥えているのや、なんちゅうこというか」。 さあ、それから怒り出した。大きな声でしゃべり出した。
肥えていると喜んでいる孫に、腫れていると言われたら誰だって怒る。私は病人の子供を探し回っている。誰か病人はないだろか、どこかに病人はいないだろうか、寝ても覚めても夜も昼も頭の中にあるのは病人ばかり、それがたまたま顔がまっ赤で腫れ上がっている子供に会えた。私にはその子が病人に見え切ってしまった。千載一遇の好機到れり、まさに好機逸すべからずと勢いこんだのがまんまと当てが外れた。婆さんのがなり立てる声を後に脱兎の如くその場を立ち去った。当分はその街をよう通らなかった。それから子供探しもやめた。
俺は東本の初代さんみたいな徳はないわい、子供探しはそれっ切りになった。また一軒一軒歩いた。けれどもにをいはかからない。何か良い方法はないかなあ、毎日々々歩いていると、天理教の教会で月次祭をつとめておられる教会に行き会うことがある。紫の教旗を立てておられるからすぐわかる。今日はここの教会は月次祭やなあ、今だったらちょっと寄らせてもらって参拝させて頂くのだが、そのころは私はそんな作法は知らなかった。けれども私には人の集まる人数が気になる。祭典日の教会の玄関をこそっと覗きに行く。そして脱いである下足を勘定する。ここは十八足も脱いである、ここは二十足、ここは十三足と下足を勘定してこそっと帰ってくる。天理教の教会とはこんなに人が集まるのに、私の布教所は一人も集まらん。なぜだろう、教会とは人が集まると聞いているし、また現実に人が集まっているのに、私の所には一人も集まらん。うちの神様はよっぽど徳のない神様だなあ、そんなことを思って過ごした日もあった。
にをいがかからないものだから、どうしたらにをいがかかるだろうか、随分考えた。そのころは社会不安のころであった。昭和二十年代という時は敗戦後で戦災で家は焼かれている。職はない、主人は戦死している、食糧はない、お先真っ暗でこの先どうして生きてゆくか、 考えれば考えるほど前途は不安であった。暗黒の世相であった。物心両面に貧困の時代であった。だから前途に望みを失って自殺する人が多かった。真剣に考えれば考えるほど前途は悲観せざるを得なかった。生きる望みを失って自殺した。そんな噂は世上に持ち切りだった。 そうだ、自殺する人なら神様のたすかる話は聞くだろう、自殺する寸前の人をたすけたら話は聞いてくれるかもしれない。よし、自殺する人をたすけてやろう、自殺するぐらいだったらたすけを求めるに違いない。それから自殺者探しであった。自殺する寸前の人を探す、自殺するのには、一、鉄道へ飛び込み自殺、一、服毒自殺、一、首吊り自殺、一、川へ飛び込み自殺、と自殺の種類にはこんなのが大体考えられる。
鉄道へ飛び込み自殺はこれは見付けにくい。踏み切りばかりとは限らん、どこで飛び込むのか現場はつかみにくい。だからこれは駄目だ。
服毒自殺、これも探しにくい。これから毒を飲むと言ってくれたらわかりやすいが、黙って飲むから分からない。
首吊り自殺。これもわからない。家の中で吊るのやら松の枝で吊るのやら見当がつかんし探されない。だからこれも駄目。
川へ入水自殺。川へ飛び込むのはこれは探しやすい。川へ飛び込むのに山へ行く馬鹿はいない、川へ飛ぶのは川の側にいるはずだ。よし、川の側を探してやろう。川の側でウロウロしているはずだ。川の自殺者探しをしよう。
大阪には大川という川がある。新淀川で水を堰(せ)き止めて毛馬(けま)の閘門(こうもん)を通って大阪市内へ導入してある川である。これが中之島へ流れて土佐堀川、堂島川となって海へ注いで行く。毛馬から中之島まで約四キロはあるかもしれない。この間が水量が豊かで水の流れも速い。ここへ飛び込む人が多かった。当時はここが自殺の適所だった。ここへ飛び込んだら死体は見つからない。流れが早いから海まで流れて行く。
ここを探したら自殺者は見つかる。時間は夜明け前だろう、夜に家を出る、出るなりどぼんと飛び込まないだろう。やはり人間には生の執着がある。飛び込もうか、飛び込むまいか、きっと思案するに違いない。そのうちに夜も更けて空が白(しら)んでくる、夜が明けたらもう飛び込めまい。帰るに帰られない。せっぱつまってどぼんと飛び込む。だから入水自殺は、きっと明け方だ。夜明け前に違いない。よし、夜明け前を探してやろう。
それからは自殺者探し専門である。夜明け前になったら大川へ行く。川の堤をウロウロと探す。この辺で人間がウロチョロしていないか、鵜(う)の目鷹(たか)の目で探す。さて、自殺者を探すといったらこれもなかなかである。歩けど歩けどなかなか見つかるものではない。
余程経ってからだったと思う。例によって夜の明け方、大川の川淵を歩いていた。私は川を渡って東側を歩いていた。銀橋の所まで来た。大阪の人はこの橋を銀橋という。本当の名称は「さくらのみやばし」というのであるが、橋の鉄吊り枠が銀色に塗ってあるので大阪の人は銀橋と通称する。その東側を通っていた。その西側に女の人がしゃがんでいる。真ん中が車道、両側が歩道、歩道の方が車道よりちょっと高い。その歩道に腰かけて車道に足を置いて膝に両手をのせて考えこんでいる。自殺者だ。よしたすけてやろう。それからぬき足さし足で、婦人に気づかれないよう近づいて鉄柱に身を隠して様子をうかがっていた。モンペをはいて年のころは三十六、七歳、ちょうど自殺の年ごろである。あれが死ぬんだなあ、手すりに手をかけたところをうしろから抱きしめて止めてやろう。早く死ねば良いのに、じっと息をつめて待っているのも辛いものだ。なぜ死なないのかなあ、なんぼ考えていてもあかんのに、早く飛び込めば良いのに。なんぼ待っても、このご婦人飛び込まない。そのうちに空が白んできた。この調子では夜が明ける。明けると死ねない。とうとう私の方から出ていった。奥さんの後ろへ行っても気がつかない。肩をポンと叩いて、「奥さん奥さん、何を悩んでおられるのですか」。 後をふり向いた奥様は、「私は何も悩んでいません」「そんなことはないですよ。私はさっきから奥さんの様子を見てますねん。何か悩んでおられるみたい、 きっと悩みごとがあるでしょう」「いやなんにもありません」「実は私は天理教の布教師なのです。私に相談して下さったら、神様がどんなことでも解決して下さいます。悩みもいっぺんになくなります。そして私は絶対他言しません。秘密を守りますから心配なしに教えて下さい」「いや私には悩みごとなど何もありません」。このご婦人強情だなあと思った。「それではなんで今ごろ、人の寝ている時刻にこんな所におられるのですか」「主人を待っているのです」「なるほど、お宅の御主人は朝帰りですか」。 夜遊びして遊んだり、マージャンしたり女遊びをしたりして、朝帰りする癖があるのかと思った。ところが、このご婦人「違います」と言う。「何の朝帰りですか」「主人は魚屋です!」。この奥さんの座っている所は銀橋の西の端の橋桁で、急に坂道になっていて自転車ではこの坂を登れない。今はみんな自動車で運搬するが、このころはリヤカーであった。魚屋さんは朝が早い。中央市場は大阪の中心地、福島にある。中央市場へ魚を仕入れに行って帰ってくるのに、リヤカーに荷物を一杯積んでくると重くてこの坂が登れない。そこでこの奥さんがリヤカーの後を押して登るのである。しばらくすると、魚屋さんがリヤカーで帰って来た。奥さんがその尻を押して坂を登って私の前をニコニコ笑いながら通って行かれた。
あ~あと思った。私は自殺者もよう探さんのか。にをいがけとは考えているほと容易なものではない。
布教に出た当時一番困ったことは孤独であった。布教に出て食べる物で困ったり、住む所や着る物で困ったりしたことはなかった。身にしみて弱ったとは思わなかった。それは覚悟の上であったから。衣食住の外に思わない苦労があった。それは孤独である。
人間孤独ほど苦しいことはない。一日にひとことも話をしないこともあった。実に寂しい、苦しい。最初に隣近所へ「天理教布教師」という大きな名刺を持って挨拶に回った。それがかえってよくなかったように思う。近所の人は天理教は警戒せねばならんと思ったようである。朝でも挨拶して話しかけようと近づいてゆくと、ほいと家の中へ入ってしまう。親しくなったら天理教に誘いまれるとでも思ったのだろう。みんな言い合わせたように避けるのである。意識して避けるのか私にはよくわかった。私だけが隣組でも孤独である。人間一人ぼっちというのは辛い。人間はお互いなにかのつながりがあり、関わりがあって生きてゆけるのである。一人ぼっちでは絶対生きてゆけない。私たちはふだん何とも感じないが、自分がその立場になったらこんな辛いことがあるものかと思う。単独布教師の苦しみは孤独である、ということがよくわかった。
妻は、教会から後任の寮長を送ってくれなかったから、私と一緒について来られなかった。だから三年間ほどは私一人であった。「風呂は毎日水道で水浴びするのである。六軒の共同水道が戸外にある。五月になるともう暑い日もある。にをいがけに歩いていると汗が出る。炎天を歩いているのだから汗がにじみ出る。夕方になって顔を撫でるとザラザラである。塩分と埃がくっついている。風呂へ行きたいがにをいもかからないのに風呂へ行くのは勿体ない、申し訳ない。だから共同水道で水浴びするのである。宵の口だと人に見られて格好が悪いので、夜の更けるのを待つ。十一時ごろになると、その当時ではこの寂しい住宅地では人通りがなかった。十一時になるのを待ちかねて裸になって、褌(ふんどし)ひとつで飛び出す。共同水道で水を頭からかぶる。寒いとも冷たいとも、そんなことはいっておれない。二、三分も水を頭からかぶったら汗は落ちる。これが私の入浴であった。けれども水浴はせいぜい二日か三日である。もう一週間もすると体脂で身体がネトネトになる。どうにもならん。風呂へ入りたかったが勿体なくて辛抱していた。
ある日、その日は特にむし暑かった。一日歩いてきたら身体はべとべとになっている。もうどうにも我慢できなくて、まだにをいがけもできないが風呂へ入らせて下さい、と神様にお願いして風呂へ行くことにした。当時は風呂銭は十円であった。銭湯で浴室の入り口で入る私と出る人とが行き会った。浴槽へ入ってから、今行き会った人が何時か何処かで見た覚えがあるように思えて仕方がない。はてどこで会った人かと思い出すのに一生懸命、風呂の中に浸っていても気が気でない。早く思い出さないと、あの人は帰ってしまう。そうなったら、のうのうと浸っていられない。あわてて浴槽から出て脱衣場へ来たら、まだその人は服を着ているところであった。私はその人の前へ立ちはだかってその人の顔の前へ私の顔を正面向けて、「あんたさん、私のこの顔見たことありませんか」と言った。するとその人、私の顔をしげしげと見て、「そう言われてみれば私も見たことがあるように思う」と言う。どこで見ましたか」「さあわからんなあ」「私もあんたさんの顔を見たことあるように思うが、どこで見たか今思い出せない、何処で見たか思い出して下さい」と私が言ったら、その人、「そんな無茶なこといっても私も知らんが、あんたさん戦争に行ったことありませんか」「戦争に行った」「どこへ行った」「千島へ行った」。 なるほど、そこで両方共合点が出来た。二人とも千島へ戦時中行っていたのである。中隊は異なっていたので話をしたり戦友の交わりはしたことがなかったが、顔を見たことはあったのだ。千島では路傍の石同然で過ごしたが、今ここでは孤独に悩んでいる私にとっては唯一のにをいがけの相手である。
早速私は衣服をつけ始めた。戦友は、「あんたまだ風呂へ入ってないのだろう」と言うが、私にはもう風呂など、どうでもよくなった。この人をしっかり掴まえていなければならん。銭湯を一緒に出て無理矢理に私の布教所へ連れてきた。私は天理教の布教していること、天理教の神様はどんな辛い病気でも、苦しい悩みごとでもたすけて下さることなど話し続けた。後で気がついたら二時間経っていた。積もってあった神様のお話をこの人に向かって、まるで機関銃を撃つように喋り続けた。この人は鳩が豆鉄砲でも食ったようにぽかんとしていた。 この人が大阪布教の別席第一号となった。喋り得た私には、その晩は王者の気概があった。
孤独ほど辛いものはない。孤独には堪えられないものである。
私の布教所の近くに大きなお寺があった。現今は道路の拡張で境内を削りとられたり公園に取られたり、民家に売却したりして狭くなっているが、昔は随分広かった。私は布教に歩いてもにをいはかからないので、所在なさにこのお寺の中を歩くことがあった。戦災でお寺は本堂が焼かれて基礎のコンクリートが、そのままで無惨な姿を曝(さら)していた。その本堂の基礎の北側、本堂が建っていた時には裏側にあたる所であるが、そこに大きな銀杏(いちょう)の樹があった。
この銀杏の大木の根元に背丈は二尺ほどのコンクリートで造った地蔵さんがあった。その地蔵さんの前に幅は四寸ぐらいで一尺五寸ぐらいの長さのコンクリートの台があった。その台の上にローソクや線香の燃え滓(かす)があった。つまり誰かお参りに来ている証拠である。こんな地蔵さんにでも参る人もあるんだなあ、なぜ俺の所の神さんには参らないのかなあと思って地蔵さんを見つめているうちに、どんな人がこの地蔵さんに参ってくるのだろう、その人の顔を見てやろうと思いついて傍の塀の横木の上に腰かけて待つことにした。単独布教師というものほど自由豁達(かったつ)な者はない。誰からも強制されないし誰に遠慮気がねすることもない。自分の思い通り振る舞っていたらいいのだから、こんな気楽な立場はない。今思い出しても、あのころは私の一番悠長で最良の日々だったと思う。地蔵さんにお参りに来る人を待つのであるが、いつ来るのやら、今日来るのか、明日になるのか、五日先になるのか、一向に見当がつかない。実にのんきな話である。
何日か待った。朝である。九時過ぎだったと思う。老婆が黒い袋をさげてやってきた。地蔵さんの前でその袋の口を開けて、中から一掴みの米を出してその台の上へ置いて、両手を合掌して拝んでいる。拝み終わって、また来た道を帰って行く。私は後をつけた。暫く行ってから、その婆さんの肩をトントンと叩いた。「お婆さん、今お参りしておられた地蔵さんに何を頼んでおられたのですか」と聞いた。お婆さんの曰く、「私には八人の子供がいました。けれどもみんな死んだ。戦争で死んだり病気で死んだり、みんな死んだ。お爺さん(主人)も死んだ。今私は一人ぼっちです。それに年も八十です。いつ死ぬかわからない。けれども死ぬ時に人の世話にはなれません。誰も近親がいないから。それで死ぬ時にはころっと死にたい。誰の世話にもなれないので、ころっと死なせて下さいと頼んでいますねん」「お婆さん、それだったらいい所を知っているわ。あの地蔵さんはコンクリートで造ってあるやろう。コンクリートの地蔵さんに頼んでも聞いてくれるか、くれんかわからん。頼りないで。人間創って下さった神様やったら、死ぬのも願い通り引き受けて下さるで。人間創って下さった神様にお願いせなあかんわ」「そんな神様おますか」「あるよ。わし知っている。教えてやろうか」。
お婆さんを連れてきた。私の布教所へ連れてきて、この神様が人間創って下さった神様や、この神様にお願いしたら、死ぬ時ころっと死なせて下さる。間違いない。そのかわりこの神様は続けないかんわ。この神様の一番嫌いなのは、途中でやめることや。雨が降っても、風が吹いて もやめたらあかんで。ずっと続けや。続いてお願いしたらきっと聞いて下さる。
婆さん翌日から来た。この婆さん、正直な婆さんで黒い袋に米を入れて一掴みの米だが神棚に供えて、毎日々々お参りになった。一年と何ヵ月かは続いたと思う。ある日も婆さん、朝の十時ごろにお参りしたらしい。そして我が家へ帰って昼ご飯の用意をしようと思って鍋を持って、裏の炊事場で倒れた。長屋であるので、隣近所の人がすぐ気がついて婆さんを布団に寝かせて医者に知らせた。けれども婆さんは、もうこと切れていた。この婆さん、昔は裕福な家だったらしい。それが戦災に遭い、八人の子供は死に、主人も死に、婆さん一人だけになった。近所の人が同情してこの婆さん死病についたら隣組で女の人が交替で婆さんの面倒を見てあげようと、みんなで申し合わせをしていたらしい。それがいつのころやら毎日々々お参りに行く。お婆さんどこへ行くのかと聞くと、死ぬ時にころっと死ねるように天理さんの神様にお参りしている、と言う。その願い通り、誰の世話にもならずに死んだので、近所の人が天理さんは偉いものや、願った通りになると言って当座お参りして下さったことがあった。婆さん、死んでにをいがけしてくれた。私は地蔵さんの信者を取ってきたのである。
にをいはなかなかかからない。しかし、おさづけだけは毎日取り次がせて頂いた。どこかでおさづけの取り次ぎはできた。一軒々々覗きながら歩いてゆくのである。布団が敷いてあったら否応なく上がって行って、おさづけさせてもらった。大阪は、裏通りの路地へ入ってゆくと小さい家が長屋になって連なっている。狭いところなので、春先からはもう門口の戸が開け放しになっている。そこを一軒々々覗き見しながら歩く。病人探しである。にをいはなかなかかからないけれども、病人は案外よく見つかった。
そのうちに、天王寺公園を知った。当時、天王寺公園はルンペンの巣であった。ルンペンだらけであった。時々、市役所か区役所からトラックでルンペン狩りに来て、ルンペンを満載して連れてゆく。けれどもまた、すぐどこからかルンペンが集まってくる。その当時はご婦人だったら昼間でも公園の中は通れなかった。公園の中で、ルンペンが一家をなして生活しているのである。手足を怪我したり、神経痛、リューマチで、手のゆがんだの足のまがったのを見たらすぐわかる。「俺たすけてやるから、こっちへこい」と芝生の上へ座らせる。そして、おさづけをしてあげる。ルンペンだけは断られたことはなかった。ルンペンがおさづけの一番のお得意さんであった。芝生の上へ連れてきておさづけを取り次いでいると、ルンペンがたくさん集まってくる。みな仕事のない連中だから、何か面白いこと、変わったことがないだろうかとあたりを注意している。そんな時、おさづけを取り次いでいると何事かと思って集まってくる。終わるころになると黒山のようである。そこで神様のお話をしてあげるのである。ほこりの心遣いの話である。大体、ルンペンになる人は賢い人が多い。人の欠点が見えて仕方がないのである。主人の欠点、友人の欠点、悪い所が目につく。それを非難し暴く。だから人に嫌がられる。言うことを聞かないから、目上の人にも嫌われる。会社や商店が順風満帆、快調に栄えている時はそれでも良いが、逆境に立つことがある。整理しなければならん時には第一番に首になる。商店を経営していても、常からお得意さんに嫌われる性格だと逆境に立った時には、第一番にオミットされて経営が行き詰まり職を失う。だからルンペンになる人は、人の欠点が目について腹を立てたり、不足をしたりしやすい人である。そのお話をしてあげるのである。ほこりの心遣いの話、心の持ち方で人の運命は変わる話をしてあげるのである。銘々身に覚えがあるから耳が痛い、途中でこんな話は駄目だと散ってしまう。
そんなことが動機、機縁になって、一年余りの間にルンペンが二十二人集まった。しまいには、巡査が連れてきてくれた。この人、今刑務所を出て来たところや、行くとこない。ここで預かってやってほしいと、そんなのが三人あった。皆犯罪人であった。
歩いても歩いてもなかなか神様の話は聞いてもらえなかった。にをいがけは本当にむつかしいなあと思った。私はこんなたすかる話、こんなに病気をたすけて頂く話、こんなに夫婦円満になれる話を持ってきてあげているのにと思うが、先方様は疑っている、ペテン師だろうか、口先ではいいことを言っているが、この人の風体から見たらこの人はゆすりかもしれん、断っておかにゃひどい目に会うぞ。つまり信用がないのである。信用のないところに決して道は通じない。布教師がコツコツと一軒々々歩いているが、悲しいかな信用がないから道が通じないのである。だからにをいがけとは信用を売ることだと思う。信用さえあったらどんな所にも道は通じる。だから布教とは信用を売っているのだと思ったら間違いない。教会長にしても信者にしても、常に身を持するには謹厳で、世の師表(しひょう)たるよう努めねばならないと思う。神一条の信念に充ちた身から出たにをいが隣近所に伝わって行く。布教とは信用を売り歩くものだ。人が相手ではない、神様が見ぬき見とおしで見ていて下さる。いつも神様にお喜び頂けるような、神様がお受け取り下さるような心と態度で通らせて頂かねばならないと思う。あの人の姿を見ていたら、あの人のやさしい心には、おのずから引きこまれていくという人柄になれたら、親神様のお喜び下さる一人前の布教師になれたことになる。
そうすれば、自然と人を集めて下さる。人が慕い寄ってくる。
にをいがかからないということは寂しいことで、月次祭が来ても誰もお参りしては下さらない。私一人である。私が神饌(しんせん)する。神饌といっても貧乏だからお供えする物がない。お水だけはたっぷりお供えできる。天満の卸売市場へ行って、捨ててある白菜やキャベツの葉っぱを拾ってきてお供えする。穀物のない時もあった。押し入れの中を探したら麦が一粒落ちていた。それをお供えしておつとめをつとめたことがあった。祭文を奏上して、おつとめをつとめる。てをどりも一人で十二下りつとめさせて頂く。終わると祭典講話である。参拝人がないので座布団を五、六枚並べる。参拝人のつもりである。ただ並べておいては格好がつかないので座布団を立てる。薄いセンベイ座布団なので二つに折り曲げると立ってくれる。八足が演卓である。「御一同様方に申し上げます。ただいまは本月の月次祭を盛大に賑(にぎ)やかにつとめさせて頂きました。滞りなくおつとめもつとめ終えて誠に御同慶の至りでございます。また御一同様方には遠方、お忙しい中をも厭わずようこそお帰り下さいました。誠に有難うございます。ただいまから例によりまして、かしもの・かりもののお話をお取り次ぎさせて頂きます」。ポンポンと拍手してお話をした。今思っても、冷や汗が出る思いがする。ようあんな馬鹿なことをしたなあと思う。けれどもその時は真剣だったのだ。座布団へのお話は何ヵ月か続いた。その当時の苦労が忘れられないので、今でも(この病気で倒れる昨年五月まで)信者宅の講社祭に行って二人居られたら、きっと祭典講話をさせて頂いた。祭典講話は欠かしたことがなかった。
私の布教はこんな0からの出発である。だから、私は信者さんは大切だと思う。信者さんは宝物だ。道を往来している人の首に縄をつけて引っ張ってくるわけにはいかん、それを先方さんから教会の門をくぐって敷居を跨(また)いでお参り下さる方は教会の宝物だ。宝物だから大切にせねばならない。教会の人は信者は宝物だということを銘記し、常々信者を押し戴く気持ちで通らねばその教会はきっと衰微してゆく。
一人の信者さんがお参り下さった時のうれしかったこと、天に昇るとはこのことかと思った。うれしさが全身に充ち溢れたことを今も覚えている。経験ほど尊いものはない。
にをいがけは私の場合はむつかしかったが、それならどうして信者が出来たか、今考えてもわからないし、不思議でならないのである。やはり私の場合はおさづけからであったように思う。病人さんが見つかり、おたすけに通う。病人さんさえ見つかったら、せっせとおさづけに通った。道の遠近は問わなかった。あんまり根気よく通うので、先方はたすかってもたすからなかっても感激して感謝して下さる。たすかったら、なおのこと喜んで下さる。信用も出来たと思ったら、病人さんを教えて下さいと頼む。親戚でもよい、友達でもよい、病人でなくても事情で困っている人、夫婦の仲、兄弟の仲、親子の仲で悩んでいる人があったら教えて下さい、それが神様への一番の御恩返しです、と頼む。大抵教えて下さる。教えて頂いた所へ行く。中には電話で先方へ知らせておいて下さる人もある。また中には心当たりの人を呼び寄せたり、私の所へ連れてきたりして下さることもある。こんどはすぐに話を聞いて下さる。信用があるからである。こんなにして私はおさづけで次から次へと道が伝わったように思う。だから、私の場合はおたすけが同時ににおいがけであった。