針の筵(むしろ)に座る不愉快な思いを続けながら修養科の教壇にのぼっていた。自信を喪(な)くした者は無気力になる。早速、妻と相談した。修養科を退(ひ)かせてもらって布教に出て行く。妻ももちろん異存があるはずはない。夫婦の相談も定まった。ところが何としたことか。身上事情は道の花と教えて下さって、成人のために親神様は美しい花を見せて下さる。先には妻の心臓病という美しい花を見せて精いっぱい楽しませて下さったが、こんどは私自身に肺結核という特別美しい花を見せて楽しませて下さることになった。すべては神様のなさる御守護である。
修養科を退かせて頂こうと夫婦の相談も決まったその月から、五、六人の男子の修養科生が入ってきた。常にはあまり纏(まとま)って入ってくることは稀(まれ)なのにその時だけまとまって入ってきた。それが皆と言うてもよいほど、曰(いわ)く因縁(いんねん)つきの人たちで、警察のご厄介になっている。人も二、三人いたし、後におちばで強盗をして事件を起こした人も入っていた。妻は宇佐の寮長をしていたので、すべては妻の責任になり妻の監督に属することになる。妻の言うのに、こんなにむつかしい人が五人も六人も揃って入ってこられて、あなたは大阪へ布教に出て詰所に男子の監督者がいなくなったら、女の私の言うことなど聞いてくれるはずがない。殊に私は病後で二人の幼児を育ててとても監督が行き届かない。もう一年だけ布教を伸ばしてもらって詰所に居てもらわないと締(し)まりがつかんから神様にお願いして一年だけ延期してもらいましょう、ということだった。私も思案した。なるほど一刻も目を離されない。いつもは騒々しいのに今日は静かだなあと思っていたら、おかしな所から煙が出てくる。変だなと思って修養科生の部屋を覗(のぞ)きに行くと障子の桟(さん)を折って大火鉢の中で燃やして酒の燗(かん)をしている。その酒もきっと盗んできたものに相違ない。なるほど、こんな連中がいては女寮長ではどうにも取締まりができない。もう一年延ばして、私が監督してやらねば締まりがつくまいと思った。それでもう一年布教に出るのを待つことにした。これが美しい花を見せて頂く元になるとは、神ならぬ身の私が知る由もなかった。
その年の五月である。その前月の四月から私は二度目の結核療養所へ出講していた。もちろん泊まり込みで一日に幾回かは詰所へ監視に帰るのであったが、二ヵ所を掛け持ちしている格好であった。五月の十日すぎだった。朝起きて便器の中へ痰(たん)を吐いたら、痰の中にマッチの頭ぐらいの大きさの血が混じっている。おかしいなあ、喉からだろうか、鼻血だろうか、それにしても今日で三日も四日も毎朝血が出るとはおかしいなあと思っていた。人間というものは、人には秋霜烈日の如く冷たく厳しいものであるが、我が身には温容春の日の如くあたたかいものである。他人の非を咎(とが)めることには人後に落ちなくても、我が悪を覆い庇(かば)うことには春の日のようなあたたかい寛大さがある。癌(がん)は恐ろしい病気である。あの人も癌になった、この人も胃癌になった。かわいそうに、いずれ死ぬだろうが、私は癌にはならない。私だけは癌にはならないよと信じている。しかし、もうその時癌に冒されているかもしれない。それが分からないのである。
私の場合も同じである。私は肺病にはならないよという寛容さがあった。実際には、肺結核患者の病院にいるのである。毎日朝から晩まで結核患者に接し見聞しているのである。喀血(かっけつ)するところも見、高熱で苦しんでいるところも見、死んでゆくところも知っているのであるけれども自分だけは肺結核にはならんよと信じている。現在の人には、肺結核といってもさほどには感じない。いろいろの特効薬が出来ているから、大した病気ではない。むしろ、癌と聞いた方が恐怖する。ところが、この当時は違った。肺結核は不治の病であった。いったん、この病気に罹(かか)ると家族中に次から次へと感染していった。遂には、一家死滅する家もあった。そんな恐ろしい病気には私は罹らないよと信じ切っている。現実に血を吐いているのに、まだ気がつかない。喉が切れたか、鼻血が出たかくらいにしか感じない。一週間ほど続いたころには、マッチ棒のような線が痰の中に混じってきた。それでも、まだ気がつかない。十日ぐらい続いた時には痰全体が血になった。血痰である。血痰になると、朝だけではない昼も出る、夜も出る。梅干の大きさくらいの血のかたまりがコロッコロッと出るようになった。このころになって、やっとおかしいなあと気がつき出した。気がついて考えてみると、朝ご飯がちっともおいしくない。つまり食欲がない。私はそれまでは朝ご飯が一番おいしかったのである。夜寝ると、暫くして目が覚める。全身汗でびっしょりになって、寝巻を着替えねばならない。最初の間は、蚊帳のせいで暑いのだと思っていた。結核療養所は田圃の真ん中である。五月になると蚊が出てくる。だから、療養所では五月の初めから蚊帳を吊(つ)っていた。それが盗汗(ねあせ)と気がついたのは、この時である。生徒にてをどりを教える。今までは一時間立ちづめで教えていてもなんともなかった。それが今では二下りも教えると息切れがして休憩せねばならん。
そんなことがいろいろと頭に浮かんできた。その時になってやっとこれはおかしいと気がついた。それでもまだ、結核とは思えない。肺病と気がつかないのだから、人間とはいかに自分自身に寛容であるか恐ろしいほどである。
結核療養所に専任の医師がいる。その医師に相談に行ったのはもう月末近くなっていた。早速、修養科入学試験のレントゲンにかかりなさいということである。昔は修養科の入学試験にはレントゲンが付いていた。間接撮影の三× 四センチぐらいの小さい写真である。そんな写真に私の胸が写るものかと思っていた。つまりまだレントゲンに写るような肺病ではないと自負していたのである。発表の日になって医師に呼ばれた。医師はレントゲンの写真を見せて、右の肺が三分の一駄目(だめ)である。至急入院加療しないと命がない。早く入院するようにすすめられた。私は肺結核であったという心の動揺と衝撃で平静でなかったので、暫く考えると言って別れた。
医師は頻(しき)りに入院を勧めたが、入院はできないと思った。私にはおたすけをする、おさづけを毎日取り次がせて頂くという心定めがある。入院したら医師の命令に従わねばならぬ。ベッドに縛りつけられて自由を拘束されるだろう。自分の思うようにはならないはずだ。
その当時肺結核は不治の病だということが誰に教えてもらわなくても、私が二年間見聞して誰よりもよく知っていた。だから私が結核と知った時、もう私は度胸を定めた。じたばたしたってたすかりっこないのだ。俎上(そじょう)の鯉(こい)だ。神様の思召とあらば潔く身上を返していこう、たすかろうとしてもたすからん病気だ。同じたすからんのなら、人をたすけて死んでゆこう。そう思っておたすけに丹精した。修養科だけは休職処分にして頂いた。そして毎日おたすけに歩いた。しんどいけれども歩くことはできる。血を吐きながら毎日々々歩いた。栄養失調と衰弱で膝がガクガクであった。だから、歩いていても地震の上を歩いているみたいで足が定まらない。それでもおたすけに行っていた。よふぼくがおたすけの道中で倒れて死んだら本望だと思った。その当時脳腫瘍(しゅよう)に罹った患者さんがあった。京大附属病院へ入院しておられた。病気が病気だから、生命もおぼつかない。物も言えない、もちろん食事はできない。 何日も飲まず食わずの重症患者であった。そのご婦人ににをいがかかったものだから、京都まで肺結核で血を吐きながら熱のある身体でおたすけに行くのである。まだ市電のあるころだから、七条から市電に乗る。熊野神社前で降りる。神社は荒れ放題であった。石の玉垣もひっくりかえっていた。市電を降りたらその玉垣の上へ腰をかけて休むのである。そこから附属病院の棟が見えるが、しんどくて腰が立たない。とうとうこの重症の脳腫瘍の患者さんは奇跡的にたすかり今も元気で暮らしておられるが、この方の顔を見るたびに、私は昔の肺結核の時のおたすけの道行きを懐かしく思い出すのである。
さて肺結核のさんげである。なぜ私は肺結核になったのだろう。神様が私に肺結核を病まされるのは何かを求めておられるのだ。血を吐かせてまでも私に求めておられるのは何だろう。明けても暮れても、家にいてもおたすけに出ても考えるのは、そのことばかりである。親は可愛い子供に血を吐かせてまで何を求めておられるのか。お道では肺病のお諭しというたら大抵決まっている。
一、親不孝である。
一、色情の間違いが多い。
一、強情で気ままで理屈っぽい。
一、我が身を守る心が強い。
一、自分のすることは良くて、人のすることは気にくわない。
肺病にはいろいろの癖性分がある。病は心の影やと教えて下さる。私が血を吐く影の元には、こんな持って生まれた癖性分がある。こんな性分が因となって血を吐く果を作っているのだ。親は可愛い私にこの癖性分を取ってやりたいために、肺病を病ませて下さっているのだ。肺病が治ることたすかることを考えるよりも、お前の癖性分を取ることを考えよ。元さえ取ったら、肺病はなくなるのだ。元を取れ、因を取れと教えて下さっているのだ。悪い心づかい、悪い癖性分を勘定してみたら、私には親不孝がある。山ほどある。親不孝だらけだ。申し訳なかったが今はすでに親はいない。親不孝のお詫(わ)びはなんぼしても切りがない。次は色情の間違いである。これだけは私には該当しなかった。この道は慎み深く通ってきた。次は強情で、我がままで理屈っぽくて気がきつくてあたたかみがない。結核菌とは自分は固い蝋(ろう)のような殻をかぶって病巣という巣を作って増殖する。つまり自分を守ることがたいへん上手で、病巣の中へ入るとどんな美しい体液でも腐らせて痰にしてしまう。肺病の人は、自分を守ることはたいへん上手である。理屈っぽいというのは自分を守る心が強いからである。自分を守るために、自分の防衛のために言い訳をするのが理屈である。私は自分を守る心が特に強い。だから理屈で押し通してきた。理屈で敗けたことはなかった。気性が烈しくてきびしかった。人を許す寛大な心はなかった。そういう気性がむしろ男らしくて好ましい態度だとすら思っていたのだから、他は推して想像がつく。
神様は私のこの癖性分をとってやろう、そしてやさしくて、やわらかくて、あたたかく、にこにこして素直で、心の低い人間に生まれ変わらしてやろう。血を吐く思いをしなければ私のこの悪い癖性分は取れないだろう。そう思って肺病を病ませて下さったのだ。
どうしたら素直になれるだろうか。妻が白いものを黒いと言っても、そうだお前の言う通りだと、にっこりわらって返事のできる人間になりたい。どうせ今生は肺結核で死んでゆく。来世生まれて来たらこんどこそ、こんな血を吐く嫌な思いのする病気にはなりたくない。来世に持ち越さないよう今生で、この悪い癖性分を取っておこう。もう私には病気なんてどうでもよかった。どうせ死ぬのだと諦めていたから、病気を治したいと焦る心はなかった。ただ素直になりたい、あたたかい心に変わりたい。どうしたらそれができるだろうか、そんなことばかり考えていた。
五月の初夏に血を吐き始めて、盛夏を通り秋も過ぎ正月を迎えた。
一月四日の御本部の朝づとめに参拝。昔は野外講堂というのがあった。教館の東側である。その端に小川が流れていた。その川の中へ血を吐いた。それが最後であった。それ以来、血は止まった。八カ月の喀血が止まった。その間、一日の日も寝たことはなかった。一服の薬も飲んだことはなかった。一本の注射もしてもらったこともなかった。おたすけをしなければ寝られない心定めが、とうとう肺病をたすけて頂くことになった。もしもこの時、私がこの心定めをしていなくて、私は肺結核なのだ、肺病は安静にしていないと治らないのだといって、旨い物を食べて安静に寝て薬を飲んでいたとしたら、私はきっと死んでいたと思う。どう考えても命はなかったと思う。
夏の盛りのころには最高に衰弱していた時であったが、その時、私の体重は四八キロを切れていたのである。裸になると肋骨が飛び出て痛々しい写真が今に残っている。もしも寝ていたら、あのまま死んでいったはずである。私には有難いことに、おたすけしなければ寝られない心定めがあった。その心定めに忠実であるためには、熱があっても、どんなに疲れていてもおたすけに行かねばならなかった。これが私の命をたすけてくれた。
わかるよふむねのうちよりしやんせよ
人たすけたらわがみたすかる 三47
過ぎ去って考えてみると、どうやら強情の心がとれて素直になれたかなあと思うころに、血が止まっていたように思う。肺結核を患う前の私を知っておられる方は、その後の私と比較して、あんた変わりなさったなあと述懐して下さった。それほど私の性格は変わった。
その年の四月、血を吐き始めてちょうど一年目、その医師の所ヘレントゲンを撮ってもらいに行った。医師はびっくりした。病巣が固まっている。どこで治してきたか、と。以来三十年、再発することなくお連れ通り頂いている。もったいないことである。
昭和二十六年正月四日で喀血は止まったので、二月からまた修養科へつとめさせて頂いた。
そのころ、もう二歳をすぎた長男が夜になると泣き出す。最初の晩は、妻と私が交替で夜通しおんぶして寝かせた。次の日は今日は疲れているから寝るだろうと思っていたらまた泣き出した。どうしても寝てくれない。おんぶしていると寝ているが、布団に寝かせると泣く。どんなにあやしても泣く。仕方がないので、また夫婦で背負うた。夜通しおんぶした。
子のよなきをもふ心ハちがうでな
こがなくでな神のくときや 三29
親神様が我々の成人の鈍さを嘆いておられる、それはよくわかっている。もっと成人させてもらわなければならんが、どうしたらよいのだろう。子の夜泣きをもって急きこんでいて下さる親の心を、そこまでは悟れるのである。が、さてしからばどうしたらよいのかとなると、二人とも頭打ちである。何をしたら良いのかわからない。
三日目の夜になった。今晩は寝るだろう。今晩こそ疲れているから宵のうちから眠ってくれるだろうと思っていた。ところが寝るころになったら、また泣き出した。九時過ぎても泣きやまぬ。この調子では今晩も夜通し泣きそうである。夫婦で、神様は何を知らせて下さっているのだろうか話し合ったが、どうもピンとこない。妻は柳井先生に聞いてきてくれと言う。もう夜も遅い、間もなく十時、柳井先生はもう寝ておられる。今ごろ起きて頂くのはご老体でお気の毒だ。けれども、三日も寝ないのは神様に余程の思召があるに違いない。行って聞いて来て下さい、とのこと。
柳井先生のお宅へ行った。やはり、もう床に入っておられたが枕許まで来なさいと言って下さった。先生は目をつぶったまま、「何の用事?」とおっしゃるので、「子供が夜泣きして今日で三晩寝ません」と言うと、全部言い終わらないうちに、「もう修養科やめ、大阪へ布教に行き」とおっしゃった。
私もそう思っていたが、本当に心に治まっていなかったのだ。今年こそどんな事情があっても布教に行くぞと心底から誓って帰ってきた。家へ着いたら子供はもう寝ていた。鮮やかな御守護であった。
夫婦で話し合って固く約束した。もうこんどはどんな事情があっても布教に出て行く。引き留めてはならん。引き留めません。今担任している組が四月で修了するから、それを送り出して四月末で退職させて頂き五月から布教に出て行こう。妻も早く後任の寮長を送ってもらって一緒に大阪へ布教に出て行きます。そう本会へ早急に督促しますということになった。
それにしても、柳井徳次郎先生の鮮やかなお諭しにはただただ驚嘆の他はない。百日続いた喘息の烈しい咳を、「修養科へつとめなさい」と言った一言でたすけて下さった。子供の夜泣きをたった一言、それも仰向けに寝たまま眼も開けないで「修養科をやめなさい」。それで御守護頂いた。これは柳井先生の海千山千の豊かな布教体験が、親神様の思召に叶い、親神様のお働きを頂くからである。お道を通らせて頂くのに、布教体験をたくさん持たせて頂くことが何よりも大切だと痛切に感じた。これは誰にでもできることである。その心さえあったら誰にでもできるはずである。
おたすけを数多く経験することである。私も柳井先生のようになりたい。お道を通らせて頂く限りは、一言いえばそれでたすかって下さるような理をお与え頂きたい。しっかりたすけ一条の苦労をさせて頂こう。そして一言のお諭しでたすかって頂く理を作らせて頂こう。一言の言葉で萎縮した人の心が踊り上がるように勇み切る、一言のお諭しで、死に瀕した病人でも起死回生の御守護を頂けるような布教師になりたい。
子供の夜泣きをたすけて頂いて、しみじみと布教師の在り方について考えたことである。
四月末日で修養科を退職させて頂いた。この修養科の三年と一カ月は良い勉強になった。この修養科がなかったら、私はどんなになっていたかわからない。三年間にちょっとばかり成人させて頂けた。
そして私は大阪布教に出て行ったのである。

