昭和二十三年四月から修養科の講師をつとめさせて頂くことになった。専任である関係上、校長先生に挨拶に行った。その当時は、修養科は現在のような学制ではなかった。天理教校修養科と言った。したがって、天理教校長が修養科を統率しておられた。時の校長先生は中山慶一先生であった。校長室にご挨拶に行くと、先生は、「芝さんはこのあいだ修養科出たとこやなあ」とおっしゃった。確かにその通りである。前年の十一月修了、わずか四カ月前。布教経験もなければ教義の深い勉強ももちろんない。そんな者が修養科の先生になるのだから、校長先生も内心は面喰らわれて、えらい奴が来よった困った、とお考えになっていたのだと恐察する。しかし、流石に大先生だけあってそんな思いは噯(おくび)にも出されないで、「お道のことはまだあんまり分からんやろうなあ」。あんまりどころか全然分からん。「はい、何もわかりません」と正直に答えた。すると先生は弱者を庇(かば)うような親心で、「ここはそれでもつとまる所やで。意気さえあったらいいねや。意気があったら修養科はつとまるのやで。意気を出してやってや」と教示して下さった。私はこの一言の言葉を忘れなかった。ようし俺は天理教は何もわからんが、意気は人後には落ちんぞ、意気を出して頑張ろう。そう心に決めて、修養科をつとめさせて頂いた。意気を出して一生懸命だった。
ところが、そんなに張り切って我れを忘れて修養科に専念している時、授業中にふっと私の頭をかすめたものがある。気がついてみると、私は通らない道を一生懸命に話しているのである。「教祖伝」はもちろんのこと、「教典」でも「みかぐらうた」の時間でも、お話の基幹はみな教祖のひながたである。教祖のひながたを話しているのに、私は教祖のひながたとは全く無縁なのである。教祖の御苦労のお話をしていても、私は何にも苦労の道は通っていないのである。なるほど、私も戦争に行って苦労はしてきた。生死の境を彷徨する苦労も、二年間風呂へ入らない、二年間米の飯を食べたことのない苦労も、人並み以上にしてきた。しかし、私の経験してきた苦労は、私のいんねんとして、避けて通れない苦労である。この道より外に逃げて通れない苦労である。いんねん通り歩む苦労で、つまりいんねん果たしのための苦労である。こんな苦労はなんぼしたって、いんねん果たしの苦労で、徳の種蒔きにはならない。私らがよく聞かせて頂く話だが、単独布教に出てあんな苦労した、こんな難儀したと聞く。学費がなくて苦労した、弁当が持って行けずに苦労した、と苦労を積み重ねてお話しして下さるが、そんな苦労はなんにもならんのである。みんな自分のいんねん報じの苦労なのだから。
ところが、教祖の御苦労は違うのである。教祖は、元々結構な御身分であって、元来苦労などとは無縁な方である。それを、人だすけのために求めて苦労なさったのである。人をたすけるために施しをして裸になり、人をたすけるために御自分の食べる物をお与えになって飢餓をお通り下さり、人に恵むために財産を納消して下さったのである。言いかえたら人のために御自身の栄耀栄華を捨てて、御苦労下さったのである。世界一列たすけるために求めて、貧のどん底に落ち切って下さったのである。私の苦労は違うのである。自分が楽をするために、人を押し倒してもたすかりたい、自分が旨い物が食いたいがために、人の物を取り上げて食べ過ぎて腹痛を起こして苦しんでいるのである。
我々の苦労は、他人の幸せの犠牲の上に自分の幸福を築こうとして、当てが外れて倒されて苦しんでいるのである。教祖の御苦労と我々の苦労とは、本質的にその成り立ちが違うのである。その簡単なことが、私の頭の先だけではわかっていて、肚の底では素通りしていたものであるから、口先だけで教祖の御苦労を生徒さん方に口角あわを飛ばして話していたのである。
私はそのことに気付いた時、愕然とした。教壇で立ち往生した。次の句が継げなかった。気の付かない間は何の臆面もなく喋り、 こんな事も教えてやろう、こんな事も知っておきなさい、と得意満々として千万言を費やしていたことが、途端に言えなくなってしまった、恥ずかしくて立っているのが精いっぱいであった。
人間は、自分の通ってきたことは自信を持ってはっきり言えるが、通らないことは言えないものである。単独布教をやって良かった経験があるから、人様に単独布教を勧める自信がある。おつくししてたすかった経験があるから、人におつくしを推められる。夫婦仲良くしてきたから、人に夫婦仲良くしなさいと言える。
自分が通らない道は人に勧められないし、言えない。私は修養科の生徒さん方に、教祖のひながたを受け売りしていたのである。まるで、私が教祖のひながたを一旦自分で消化して、自分も味わい通ったかのごとく生徒さんに取り次いでいたのである。
そんなことに思いが到ると、もう授業ができなくなった。教祖の御苦労の人だすけのための艱難の道を、三日でも通ってこないと、お道は通ることも話すこともできないと思った。翌日からは教壇に上がるのが針の筵(むしろ)に座るようであった。これが私が修養科につとめさせて頂いて二年目のちょっと前、昭和二十五年の春先だったと思う。もう修養科をやめようと思った。私は天理教で、余生を通らせて頂こうと心を定めた。天理教で通らせて頂くならば、何時何処で人様に神様のお話を取り次がせて頂くか分からない。その時、話の基幹になるのは教祖のひながたである。通ったことのない者が、ひながたをお取り次ぎして、相手は決して感銘してくれないし、取り次ぐ私自身がうわの空になって実がない、またできない。どうせお道を通る限り、たとえ二日でもよい、三日でもよい、人だすけのために、飲まない、食わない、寝ない、着ない苦労の道を通ってきておかねば、私の一生は空っぽの一生になる。それでは俺は嫌だ。人だすけという苦労を三日でよいから通ろう。修養科をやめて、その苦労をしにいこう。そう心を定めた。これが私が布教に出て行く直接的動機だった。