『一日一回おさづけ』芝太七著_04)成人への道すがら

 喘息の心定め通り、私は修養科の講師をつとめさせて頂くことになり、昭和二十三年四月から出仕させて頂いた。ここに私のお道への成人の道すがらが始まったわけである。しかし、このまま何の障害もなく、差しさわりもなくお道が歩めたかというと、決してそんなにスムーズに道が開けてゆけたわけではない。「身上、事情は道の花」と教えて下さる通り、神様はしばしば花を見せて下さる。道を歩むのに退屈ささないよう赤い花、青い花と色々の花を見せてお連れ通り下さる。単調だと、人間は道草を喰うたり、横道に外れたりするから神様の方で美しい花をあらかじめ用意しておいて下さって、それを見せて楽しませながら陽気ぐらしへの道を連れて通って下さる。私もまた、ご他分に漏れず綺麗な花をたくさん見せて頂きながら、陽気ぐらしへと成人させて頂いてきたようである。

 我が家では、昭和二十三年六月に長男が出生した。私が復員して、ちょうど一年目である。男の児が欲しいと思っていたところへ願い通り男の子が授かったので、私らの喜びようは格別であった。ところが、産後一週間ほど経って妻が発熱した。その熱がどうしても下がらない。私らの家族は私ら夫婦だけである。父も母もいない。この時、私は夫婦だけという不自由さを嫌というほど味わった。誰もたすけてくれる人も手伝ってくれる人もいない。詰所のことだから、修養科生はいるが私用には使えないし、好意的に先方から手伝ってやろうという時だけ、しかもそれは不規則である。いきおい、家庭の事は妻が手出しすることになる。つい無理をするから、熱が出る。医者は産褥(さんじょく)熱というのだが、今のように医療が完備してない時だから完治しない。その間に、いたずらに時が過ぎて、とうとう百日に及んだ。百日を過ぎたころから、やっと御守護を頂いて平熱に戻った。床上げしたのは百日を過ぎていた。 

 この百日に及ぶ産褥熱のために体力を消耗し回復に至らないうちに、妻は翌年また妊娠した。出産予定は昭和二十四年十二月中旬となった。去年に続いて今年の慶事だというので、私ら夫婦は喜びのうちにその日の来るのを心待ちに待った。妻も胎児も順調に経過して、兄妹親戚の少ない私らは人数の増えるのを至上の喜びとした。

 ところが予定日のちょうど一カ月前、その年の十一月十一日、夕刻になって私は修養科のつとめをおえて我が家へ帰ってきた。いつもなら、私の声を聞いて妻は玄関まで迎えに来るのだが、その日にかぎって迎えにも出ないし、返事がない。おかしいなあと訝(いぶか)りながら、奥へ入って行った。一番奥に四帖半程の部屋があって、真ん中に大きな火鉢があった。妻はその大きな火鉢の縁に顔を伏せて、私が、「ただいま」といっても顔を上げないし、返事もしない。私は妻の額に手を当てて顔を上げた。妻の顔は様相が一変していた。蒼く膨らんでふだんの妻の顔ではなかった。どうしたのか、いつからこんなになったのか、畳みかけるように訊ねた。妻は消え入るような声で、突然昼ごろ、こんなになってしんどうて立ち上がる気力もない、と言う。早速、布団を敷いて妻をそこへ寝かそうとするが、妻は寝ようとしない。 無理に横にすると咳きこむのである。それに妊娠九カ月のお腹で横になりにくい。すぐ、よろづ相談所の附属病院から、私の昵懇(じっこん)にしている医師が往診して下さった。その医師の曰く、「去年の産褥熱の後の体力の弱っている時に妊娠して、今までは体力が持ちこたえてこられたが、もう九カ月にもなるといよいよ体力の限界にきた。もう心臓がその負担に堪えられなくなった」というのである。大体、妻の心臓は先天的に欠陥がある。これで今までよく持ちこたえられたものだ。「これはすぐ入院して、胎児を出さねば母体は助からん。早急に処置せねばならんからすぐ行きましょう。私の乗ってきた自動車で行きなさい」親切に医師は言って下さった。 

 しかし、私は考えた末に断った。医師は友情の上から、残念そうに「早くしないと命が危ないよ」と言い残して帰って行った。

 妻は薬が嫌いで、薬は一切飲まない。病院から薬をもらってきても、妻には無用のものである。神様の御守護が頂けるだろう、たすけて下さるだろうと待っていても、一向におたすけはない。ますます、妻の体は腫れてくる。十一日の晩以来、妻は横になれない。投げ座りである。医師が言うのには、顔が能面のように腫れていると同じに、内臓も腫れている、肺も胃も腎臓も腸もみんな水びたしである。横臥すると、肺の水が咳になって出てくるのである、と。なるほど座っていても、妻は咳をすると咽喉からガラガラと音を立てて水とも唾(つば)ともいえない液体が出てくる。だから、常に洗面器を受けていなければならん。投げ座りというのは、フトンの上で両足を伸ばして座ることである。夜も昼もずっとこれである。お腹は丸々の九ヵ月、それに投げ座りだから、多少でも背中が凭れられるようにと思って、後ろに座布団を十枚か十五枚ほど積み重ねてあげる。現今のように座椅子のないころだから、そうでもしなければ妻の身体がもたないと思った。妻がその座布団に凭れると、座布団はうしろにずれてくる。それを防ぐために、柱の所へ座布団を凭せかける。だから、妻の布団は常に凭れられる所を求めてあちらへいったりこちらへいったり移動するのである。脈搏は素人では数えられないほど早い。大体一分間に120ぐらいが常であった。妻はハアハアと如何にも苦しそうに音を立てて息をしていた。私はじっと見ておられないので、背中をさすってあげる。さするとちょっと楽になる。

 昼は修養科につとめ、おたすけして夕刻に帰ってきて妻の看病をする。昼の間は修養科生の女の人とか、詰所の炊事の婆さんとかが看病して下さる。夜は私が看病する。二、三日で御守護頂けるだろうぐらいに思っていたのが、何日経っても御守護頂けない。ますます悪くなってくる。看病している私も夜は寝ずの番である。妻の背中をさすってあげている間に、妻は座ったままウトウトと眠る。やれやれ私もこれで、ひと休みできるわい、とタバコに火をつけているうちに、妻はふと目を開けてハアハアと苦しむ。また私は妻の背中をさする。 その間に、去年の夏産まれた長男が一歳と五ヵ月になっている。この子の面倒を見てあげねばならん。大小便の世話から食事から、みな私の手にかかる。そのうえ、おぢばは十一月の末になると、冷えこんでくる。今のように石油ストーブの普及していない時である。暖房はすべて炭火である。火鉢で火を起こして暖を取るので、一酸化炭素の中毒にならないよう、時々窓を開放して空気を入れ換える。また炭をつぎ足すのも忘れてはならん。そんなことをしていると、私の寝る時間はない。昼は学校、夜は看病で、どうして睡眠を取ったのかわからない。とにかく五十日間、着のみ着のままで過ごした。それで病気が少しでも快方に向かっているのなら、まだ張り合いもあるというものだ。病気はますます悪くなる一方である。

 十一月三十日、その日はちょっと遠方まで汽車でおたすけに行き、夕方は真っ暗になって帰ってきた。例のごとくハアハア苦しい息をしている妻が、私の顔を見るなり、この上布団を除けてくれという。重たくて堪えられんのである。それは絹夜具でほんの軽い上布団なのに重いという。昔から布団が重いという病人は死期が近いと聞く。困ったなあと思ったが仕方がない。布団を取って毛布を掛けた。また毛布が重いという。どうにも措置がないので、真綿の多量に入った大きな寝巻を仕立ててもらった。それを妻に着せた。そして一層部屋の中の暖を強くした。

 翌一日は心配なので、かかりつけの産婆さんに来てもらった。産婆さんは診察の結果、お腹の中の胎児はもう死んでいる、心音が聞こえないという。妻に体内で動いていますかと聞くが、妻は自分が苦しいので子供の動くのに気がつかない。産婆さんの言うのに、胎児はお腹の中で水びたしになってもう死んでいる。死んでいるから早く出さないと、腐敗してその毒素で母体が駄目になってしまう。夫婦でご相談して返事して下さい、と帰って行った。ところがその一日の夕刻になって妻が思い出したように、今お腹の中で少し動いたという。早速産婆に連絡すると、「子宮が水で溢れてもう心音が聞こえないのでしょう。今なら胎児は辛うじて生きている。今出せばいずれは死ぬであろうが、一時命だけはあるかもしれません。 早く出すように相談して下さい」とのことだった。発病以来、もう二十日が経っている。この間、妻はほとんど何も食べていない。何か食べるように仕向けるのだが、食欲が全然ない、と言う。茹で卵でもと思って無理に口の中へ押し込むようにする。押し込んだ分だけは咽喉へ入れてくれる。神様の御供さんのお洗米は、いつも口の中でカチカチと噛んでいた。本部員桝井孝四郎先生が、時々おたすけに来て下さった。先生がおたすけに来て下さる時は、きまってお洗米を持って来て下さった。をびやつとめをなさった時の残りのお洗米である。だから大きな紙袋に入れて持って来て下さる。妻はそれをまるでお菓子でもつまんで頂くように、口の中へ入れて頂いていた。それが妻のお腹の中に入った唯一の食べ物だったろうと思う。

 その年の十二月三日の朝のことである。出勤前の私は、苦しそうに肩で息して、積み重ねた座布団に背を凭せ目をつむっている妻の前へ行って、こう言った。 

「私は最初、お医者さんが入院しなさい、私の自動車に乗って行きなさい、とまで親切に言って下さったのに断った。その後再三のお医者さんの推めも、頑固に断り続けてきたのは、入院したらお医者さんはお腹の中の胎児を堕(おろ)されるに相違ない。きっと堕胎する。医者がそう言ったから間違いない。人間の命に重い軽いの区別はないはずだ。こんど産まれてくる赤ちゃんも、母親であるお前の命も、みな親神様がお与え下さった尊い命で軽重の差はない。それを親の命をたすけるために子の命を捨てる。子供を堕してでも、親の命をたすけようなど、どうしてできるか。私らは、このお道の尊いお教えを聞かせて頂いている。神様のお言葉に、『我が身どうなってもという心に神は働く』と教えて下さる。自分の身は捨ててもという心に、子供の命をたすけて下さる。それを子供の命は捨てても我が命がたすかりたいという心では、神様の働きようがない。堕胎したらきっと、お前の命も神様は取り上げなさる。と私は信じた。だから、私は頑固に入院を断り続けてきたのである。ところが一昨日、産婆さんの話で胎児は水びたしの中で苦しんでいる。今のうちなら命はたすかる。ほっておいたら、この子は十二月の中旬しか産まれて来ない、そう言って帰って行った。今なら、この胎児は命があるかもしれないから、たすけてやるために産婆さんに出してもらうか」と相談した。すると妻は、「私はかねがね、こんどのお産は早い目にと神様にお願いしています。神様はお産は、早い目なりとも遅い目なりともとおっしゃって、願い通り受け取って下さいます。をびやのおゆるしを頂いているのですから、きっと早い目に働いて下さいます。今まで辛抱して来たのですから、今さら人の手を加えるようなことはやめて下さい。このままいて、たとえ私の命が亡くなっても神様の御守護ならそれも結構です」。 苦しい息の中から、妻はこう返事した。「わかった。お前がそれまで心が出来ているのなら、それで結構だ、生かすも死なすもみな神様の御守護だ。一切神様に凭れてゆこう」そう言い残して、私は修養科へ走って行った。 

 その日は土曜日であった。当時の修養科は、今の天理中学校のある所が全部修養科であった。今は「憩の家」が建って随分狭くなっているが「憩の家」の所も広い運動場で、昭和二十四年ごろは専任の先生方が区画割をして、各自農園にして芋を作ったり、豆を植えたり畑にしておられた。

 土曜日は三時限で授業は終わりであった。私は三時限目の授業に出て、十一時に真近くなったので、そろそろ授業を終わりにしようと思っていると、廊下をバタバタと走る足音がして、急にドアを開けて給仕さんが入って来た。

「先生、お宅から急用の電話がありまして、すぐ帰って来いとのこと」 私はピンと頭にきた。ああ妻はもう死んだ。今朝のあの病状から見たら死んだとしか思えない。とにかく急がねば、私は教服の尻を端折って運動場の畑を横切って走った。詰所へ帰って自分の部屋へ入ったら、やはりいない。朝出がけにいた妻は寝てない。奥の襖を開けたら、布団にキチッと寝かされていて、その枕辺に当時詰所に居た女の子が付き添っている。やはり死んだか、と思って枕辺に行くと、「お産です」と言う。私は仰天した。朝出がけには、何の前兆もなくお産どころか命が危なかったぐらいなのに、お産と聞いてびっくりした。 

 しかしこの場合びっくりしている余裕もなかった。すぐ手配したが、産婆は不在。出産の予想もしていないので、行先告げず出ているので探しようもない。私は妻の身体が心配で、寸時も枕許を離れなかった。妻のお産は今までの経験では、五、六時間はかかった。当時は現今のように産院で産むとか、産科で産めるとかの時代ではなかった。みな家庭で産婆さんに産ませてもらったものだった。 

 この調子でこのお産も五、六時間かかったら妻の身体がもたない。どうしてこの心臓で、これから六時間命がもつだろうか。そんなことを考えながら、妻の両手を枕辺で堅く握って励ましていた。陣痛が迫るたびに、妻は二回か三回ほど、痛い痛いと言っていた。私ははげましながら、「南無天理王命、南無天理王命」と親神様に念じていた。 

 と、突然、妻は「水が出た」と言う。何事かと思った。また、次に、「頭が出た、南無天理王命」と私の握っている手を振り解いて合掌する。私はもう完全に頭にきたと思った。一番心配していた尿毒症が出た。体が水ぶくれに腫れているのは尿が出ないからである。尿毒が脳を犯して精神が錯乱し死に至ることを常に一番心配していたが、それがこの期になって現れた。困ったことになった、と心配していたら、妻の寝ている布団の裾の方で、「オギ ァオギァ」と泣き声が聞こえる。不思議だなあと思って布団の裾をめくって見ると、なんと赤ん坊が俯(うつむ)けに転がっている。夢ではないのかと思った。しかし現実である。傍にいた女の子は娘だから、処置ができない。産婆さんはいない。仕方がないので「よろづ相談所」へお願いした。早速に、看護婦さんが来て処置をして下さった。男の子であった。すこし未熟であったが、元気でなんの異状もなかった。完全に処置が終わった。そこへ産婆さんが駆けつけた。事情を説明したら信じられないと言う。産婆さんの介入する余地はなくなったので、帰ろうとして道具を持った時にガチャンと音がした。私は不審に思ったので、それは何かと訊ねた。産婆さんは、「これは、お宅のお産のために用意しておいた注射器と注射液です。お宅のお産はどうせ産科の医者に立ち合ってもらわねばならないが、私もこれだけは用意しておかねばと思って、特にお宅のために用意したものです。見せてあげましょうか」と風呂敷を解いて出して下さったら、なるほどあるわあるわ、よくこれだけ集めたなあと思うほどの大小さまざまのアンプルと注射器。「けれども、これは一つも使わずじまい、役に立ちませんでしたわ。お宅さんは一体どんな信心をしておられるのですか。 お宅さんだけは神様のお働きが格別ですなあ、感心しましたわ」と言い置いて帰って行かれた。因(ちなみ)に、この産婆さんは産婆の技術も評判であるが、信仰も熱心で、その当時は布教所長をしておられて後に教会長になられた、と風の便りで知ったことがあった。熱心な信仰者であったが、その方が感心なさるような御守護を頂いたのである。全く鮮やかな御守護であった。

 お産の後、二日ほどは水がおりた関係で横になって寝られたが、元々の心臓は快(よ)くなっていないから、また腫れ出して投げ座りになった。さあこんどはたいへん。産後であるから状況はさらに悪い。私も世話するのが一人加わった。赤ん坊は小さいから柳行李の蓋に入れて育てた。ミルクが飲めるようになっても母乳が飲めないから、人工哺乳は一切私がやらねばならん。昼は学校へ行くので人に頼んでおく。夜は私である。

 妻の病勢はいよいよ悪くなってきた。時折、医者が来てくれるが、首をかしげて、「いけませんなあ」と言い置いて帰って行く。十二月の中ごろ過ぎであった。往診に来てくれた医師が、帰りに私を外へ呼び出して、「用心しなさいよ。臨終が近いと思いますよ」と注意して下さった。しかし、そんなに悪化してきても、どうにも私には手のつけようがない。妻は注射を打てば苦しむので、発病の時に打って下さった一本だけ(それで夜通し苦しんだ)で 以後は絶対拒絶する。薬物は一切飲まない。食物も食べない。 お洗米だけである。夜昼心臓の激しい鼓動で苦しみ通し、夜が来るのが怖いと言う。夕方になるときまって、「もう夜がくる、こわいわあ、こわいなあ」とつぶやく。眠れないからである。かわいそうだが、私は何もたすけてやれない。一日に六回までと教えられているので、毎日朝から夜まで六回のおさづけは取り次がせて頂いてはいるが、一向に効き目がない。人間の無力さと病気の苦しさ、辛さ、暗さを嫌と言うほど味わされた。

 芝家は前生でどれほど悪いことをしてきてあるのだろうか、払っても払っても、次から次へとこれでもか、これでもかと病気が押し寄せてくる。修養科の古い先生方に、心の苦しさのあまり、妻の身上のお諭しを仰ぐのであるが、誰もなるほどと納得する「理」を教えて下さる先生はない。 お困りですなあと言うぐらいが落ちである。

 十二月二十一日、もうその日は妻の身上は最悪に近づいた。宵の間背中をさすってやっていたが、少しウトウトしたようだし、私も疲れたので、部屋の真ん中で両手を畳に突っ張って四つん這いになって考えていた。疲れているし寝不足だし、良い考えは浮かんでこないが、 ハアハアと苦しみ喘いでいる妻を目の前にして、神様はきっとたすけて下さるはずでたすけて頂く方法はあるはずだが、私の心がその琴線に触れないだけだ。どうしたらその琴線が見つかって、それを掴むことができるのだろうか。たすけて頂く道はどこで触れることができるのだろうか、と思案に沈んでいた。そして、ふと傍らの事務机を見ると、机の上に山のように薬が積み重ねてある。私の家は代々、昔から大阪商人なので、番頭で店を持たせている人があって、その当時まだ存命の別家が何人かいた。そんな人にとっては、妻は恩人の主家のたった一人の生き残りであった。まだ奉公して間もない丁稚の時に、産まれて間もない幼少の妻を負うて守りをした人々なので、妻をコイさんと呼んで敬愛していた。そのコイさんが瀕死の病患なので、主家の大事とばかり入れ替わり尋ねてきた。ところが、妻は薬を一切飲まないので、漢法薬なら飲むだろうと、朝鮮人参だとか何だとか心臓に利く薬だと言うては、当時でも高価な薬をたくさん持って来てくれていた。妻はそれも飲まないので、事務机の上へ嵩高く積み上げていた。顔を上げた私の目にそれが入った。そうだ、神様に一切凭れ切っていると心定めしてお願いしているのに、こんなに薬を大事にして積み重ねているようでは、まだ本心から凭れ切っていないのだ。目障りになる。これを捨ててしまおうと思った。妻も同意したので、風呂敷に包んで裏のゴミ捨て場へ捨てた。そうだ、私にはまだいんねんの自覚が本心から出来ていなかったのだ。妻の病気をたすけてほしい、たすけてもらいたいと願っていたのは、私のいんねんの自覚が出来てないからだったのだ。私らは家のいんねんとして夫婦別れる運命なのだ。私が死ぬか、妻が死ぬか、別れ別れのいんねんを神様がお見せ下さって、これでも悟れないのか、これでも解らないのかと急き立てて下さっていたのだ。私にはそれが解らないで、苦しんでいた。だから、早く治してほしい、早くたすけて下さいとお祈りばかりしていたのだ。大間違いだった。よしわかった。もう今日からは頼みません。これが私が通って行かねばならないいんねんなら、よろこんでこのいんねんを納消します。どうぞ妻に病ましておいて下さい。六十、七十になるまででも妻の看病をします。私は一生、妻の大小便の世話から衣食の世話まで、また子供の面倒も厭いません。どんな苦労でもさせてもらいます。いんねんならば妻を引き取って下さい。引き取ってもらっても、私は決して後添いをもらいません。一生涯鰥(やもめ)で通ります。不自由に堪えてゆきます。どうぞ芝家のいんねん通り、苦しませて下さい。私の肚が決まった。もうじたばたしなくなった。そう胸の琴線に触れた。確かに手応えはあった。これだったのだ。このいんねんがわからなかったのだ。

 もう夜も遅くなっていたが、かんろだいにお参りした。そして、神様にお誓いした。いんねんの自覚が出来ました。どうぞ芝家のいんねん通りに運んで下さい。これからは病気たすけてもらいたい、妻を早く快くして下さいなどとお願いしません。いつまでも病ませて下さい、何十年でも介抱します。六十、七十の年まででも病ませて下さい。私が面倒見させてもらいます。それが私のいんねんなのですから。楽しよう、たすかろうとはもう決して思いません。そうお誓いして帰った。

 私の帰りを妻は待ち兼ねていた。大便をすると言う。大小ともに、私が妻の身体をうしろから両に手を入れて持ち上げて右足でオマルを下へ差し入れてあげるのである。これはいつもしている通りなのであるが、大便はふだんは出ないのである。食べていないから出る物がないのである。おかしいなあと思っていつもの仕草をしてあげると、水のような液体が音を立てて出てきた。その晩、それから何回出たか、それからちょうど三日間、水のような液の便が立て続けに出た。さすがの満々と腫れていた妻の身体が人並みに細ってきた。下痢で細くなるのも結構だが、それでは妻の疲労が重なる。これが小便に変わったらと思ったので、かんろだいで、あれを小便に変えてやって頂く訳にはまいりませんか、それの方が妻には好都合でございますとお願いして帰った。こんどは小便に変わった。面白いほど出た。出るわ出るわ、とうとう十二月二十八日に至って水気は出尽くした。雪だるまのように腫れ上がっていた妻の体はミイラのように干からびてしまった。全身が皺だらけになってしまった。もう心臓の烈しい鼓動もなくなった。心臓が恢復したのである。食事は取ってない。もちろん栄養の補給もしてない。それにどこから心臓の快復する力が生まれてきたのか、私には説明のしようがない。不思議な神様の御守護である。しかもそのいんねんの自覚が心底から悟れた時に、不思議な神様の御守護をお見せ下さったのである。二十八日のその晩、妻は全く久し振りに笑って、今日は初めて横になって寝られる、と布団の上に横たわった。私も今日は寝巻に着替えて寝られる、と実に五十日振りに寝巻を着て横になれた。五十日ぶりの疲れが出たのであろう。二人ともその晩はぐっすりと眠った。お恥ずかしい話であるが、翌朝目が 醒めた時、私の腰の回りが冷たい。おかしいなあと思ったら寝小便を垂れていたのである。疲れのために前後不覚であったのであろう。

 正月三日には、妻は座ってご飯を食べられるようになった。正月十五日、夫婦手に手をとってかんろだいに参拝できた。この有様を終始知っていた当時の人たち、親戚、別家の人たちは目を見張って驚嘆した。幽霊が歩いているのかと思ったと驚いた人があった。これですっかり妻の心臓は治ったわけではない。完治するまでにはこれからなお八年の歳月を要するのである。が、この時の危機は脱し得たのであった。 

 後で悟り得たことではあるが、この時のこの鮮やかな御守護を頂くために、神様は前もって私たちにこの大難を知らせて下さっていた。 

 みへてからといてかゝるハせかいなみ 

 みへんさきからといてをくそや 一18

とおっしゃるように、神様は人間可愛い一条の上から、めいめいのいんねん通り悪くならんように、あらかじめ予告して下さっている。

 神様は「闇討ちせん」と教えて下さって、親なる神は可愛い子供である人間に、不意に命を取ったり、大難になったりするようなことはしない、とおっしゃる。小さい事情、身上を通して大難を予告して下さっている。その小さい身上、事情の時に、先の大難を見透せる人はたすかる理づくりをするから、たすかるのである。どうしたらそれがわかるか、親の思いがわかるかと言うと、 

 にちにちにすむしわかりしむねのうち

 せゑぢんしたいみへてくるぞや  六15 

と教えて下さるように、めいめいが成人することである。親神様にひたむきに凭れ、たすけ一条に励み、陽気ぐらしに徹底するところに成人が遂げられ、先の難が見えてくるようになる。自分が成人するより外にはないのである。成人すると心が澄んでくる、澄んでくるから先が見える。澄んだ清水だったら先の見透しがつく。濁り水では先は見えん。天理教の信心は成人することであって、何年信心していても成人しないと先はちっとも見えないし、したがってたすからん。

 親神様のお慈悲で私らにはこの大難を一年も前に見せて下さっていたのである。それはこうである。 

 同じ昭和二十四年の一月から、私は田部の結核療養所の特別修養科の講師になって行った。その当時、結核療養所の講師は専任の先生が行くことになっていたが、行く人がなかったので私が志望して行った。ここは宿泊して勤務する所であって、三ヵ月間は泊まりこみである。修養科の本校の方にも授業があったので、田部と本校は自転車で往来していた。一月十七日のことである。田部から本校へ自転車で行った。いつもは西側、今の「憩の家」の前の道を通るのに何を思ったのか、東側のお墓地の筋まで出て来て越乃国の詰所の前を南の方へ降りて来た。勢い私らの住居のある宇佐詰所の前を通る。その時、別に用事もないのに、ふらふらと宇佐詰所の中へ自転車のハンドルが向いた。詰所の中に入ったらガランとしていた。修養科生はみな学校へ行っているし、人の居るはずはないのであるが、そのまま裏口まで出た。裏はちょっとした空地になっていた。と、その空地で布団が燃えて、綿が飛び出して燻(くす)ぶっている。燃え残っている布団の布地の柄は私の布団である。びっくりした。私の布団がなぜこんな所で燃えているのか、その時うしろの方で、二階から階段を降りてくる音がする。振りかえったら、修養科生の女の子が蒼白な顔で、「先生、二階がたいへんです」。 駆けのぼって行ったら、一面の煙で息苦しい。定かには見えないが、大広間に真ん中だけくりぬいたように焦げ落ちた畳が一枚ほってある。広間の隣が私の寝室に使っていた部屋であるが、そこはもう濃い煙で息気が鼻をついて長くは居られない。落ち着いてから、この女の子の話を聞くと、こういうことである。

 この女の子は、修養科へみんなと一緒に登校したが、授業中に腹痛になった。それで帰ってきた。詰所まで帰ったら腹痛はもう治ってしまって、今更、学校へも行かれないし、炊事の婆さんの部屋へでも行って炬燵にあたらしてもらおうと思って、婆さんの部屋へ行った。そこに私の長男(生後八ヶ月)が寝かされていた。おむつがぬれていたので、換えてやろうと思って婆さんに聞いたら、二階の寮長先生(妻)の部屋で、炬燵であたためてあるとのこと。寮長先生の部屋へ行った。襖を開けたら一面の煙、びっくりしてバケツで水を運んで今やっと、消火したところ、というのである。

 炊事の婆さんは、この時もう六十五歳くらいで老齢であった。妻は長男を婆さんに託して、朝から大阪へおたすけに行っていた。老齢の婆さんは赤ん坊のおむつを二階の妻の部屋の炬達で温めていたが、度々炬燵の火をつぎ足すのが面倒とばかり、燃えがらを一度にたくさん入れた。四角い櫓炬燵の上へおむつを何枚も重ねて、その上へ布団を覆っておいた。婆さんが炬燵の火受けへ山盛りに燃えがらを入れたので、熱気が籠(こも)っておむつは炭化し炬燵の櫓も 炭化して木炭のようになり、さらに熱気は上へのぼって覆ってある布団を突き破り、酸素欠乏で燃え上がらずに煙だけどんどん出していた。部屋を全部閉めきっていたので酸素の補給ができなかったのである。そこへ修養科生の女の子が入っ行って、今まさに燃え上がろうとしている覆い布団を裏庭へはうり出した。それが裏で燃えている私の布団であった。炬燵の底板が炭化して突きぬけ、畳を炭化し一枚まん丸くくりぬいた所へ水を掛けて消してくれたというわけである。

 本当に一瞬を争う危機一髪の時だったと思う。火の手が上がったら何人がいても防ぐことはできなかったと思う。炬燵の周囲は幾枚もの屏風で囲ってあった。この屏風に火がつけば、もう最後である。時間から見ても五分間の余裕はなかったかと思う。

 それにしても、その修養科生がよく腹痛を起こして中退してきてくれたことである。中退しても寝込んでいたら何にもならない。腹痛が治ってくれたことである。そして、子供のおむつを取り換える心になってくれたことである。思えば思うほど、親神様のおはからいの深さに痛み入るのである。どれ一つ欠けても、大火になるところであった。

 親神様のお慈悲に感泣した。大難を無難にお連れ通り頂いたことを感謝するとともに、この際重大な心定めをせねばならないと思って、その夜詰所へ帰ってきた。今日起きた事情を妻に話して、「さてお前はこれを何と悟るか、これからお前と練り合いしよう。私が思うのに、親神様のお慈悲で大禍を無難にお連れ通り下さったが、やれやれボヤで済んだわいと安堵していたらたいへんなことである。今日は正月の十七日である。まだ年が明けて間もない。今年は年の始めから、私が結核療養所へ行っている。これは志願して行ったと思っていたら 大間違いである。見るもいんねん聞くもいんねんで、神様はお前も結核になるいんねんがあるよ。結核は灰にならねば治らん、灰になるぞ、とおっしゃっているのである。そして、こんどは家も灰になる。お前の家は灰にならねば済まないいんねんがあると教えて下さっている。つまり、私が灰か家が灰か、今年の年頭に当たって神様が芝家の誰か灰になる理を見せて下さっている。私が灰になってもかなわん。お前が灰になっても困る。長男が灰になったらさらに困る。三人家族の中で誰一人が灰になっても困るのである。灰にならないようにしようと思ったら、どうしたらよいのか。それは、灰になると同じ苦しみを背負ったら良いのである。同じ苦しみとは何か。貧乏である。求めて貧乏したら良いのだ。教祖は貧乏のひながたを残して下されたのである。貧乏したら運命は栄えることを教えて下さったのである。だから、この芝家の誰かが死ぬ大難をたすけて頂くためには、精いっぱい貧乏することである。それは理をつなぐことより外にない。天理教は、理をつないで貧乏してたすかる道を教えて下さっているのである。だから、今年は毎月神様に最低一万円ずつお供えして貧乏して、この大難をたすけて頂こうと思うが、お前どうする」。

 妻はしばらく考えてから、「お父ちゃんわかります。けれどもそんな一万円のお金どこにありますのや」「どこにもない。作り出さにゃないがな」「どんなにして作りますのや」「おたすけより外ないやないか。今年は精いっぱいおたすけするのや。神様が作って下さる」。

 その当時、一万円は相当値打があった。私の修養科で頂く一カ月のお与えが、確か1,700円だったと思う。私の給料の1,700円で家族三人、喰うて着て一カ月一万円をつなぐのである。これは妻が納得いかないように実際は勘定できない。しかし、私は妻も死なせたくない、息子も死なせたくない、芝家も守って行かねばならない。そしたら所詮、この道より外にはなかった。

 妻も、お父ちゃんおたすけに精いっぱい働きましょうということになった。これから一生懸命におたすけに働いた。無我夢中だったと思う。もちろん着たり食べたり飲んだりには一文のお金も惜しんだ。そしてにをいがけ・おたすけに根限りつとめきった。その結果、一月には二万円の御供えが出来てうれしかった。二月は日数も少ないし心定めはどうかな、と思っていたら一万円出来た。三月も、四月も。とうとうこの年は、全部で十七万円という大金をお供えさせて頂いたのである。思いも及ばない成果であった。 

 根限りに働かせて頂いて、十一月十一日から年末にかけて、妻のこの身上となったのである。妻の奇跡的な御守護は訳なしに現れて来たのではなかったのである。正月にお見せ頂いたボヤ。それから親心を悟らせて頂いて、一年間飲まず食わず、寝る間も惜しんでおたすけに駆けずり回った理づくりが、とうとう最後に大難を小難に、死ぬべきところを死なないでお連れ通り頂く御守護となったのである。

 これは私たちが成人への道すがらとして、どうでも通らねばならない一齣(こま)であったと思う。

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