『一日一回おさづけ』芝太七著_17)あとがき

 人の世は、助けたり、助けられたり。恰(あたか)も糾(あざな)える縄のごときで、助けっぱなしの一方通行もなければ、助けられっぱなしもない。表になり裏になって綾(あや)なしている。だから問題は、人は助けられる時には、精いっぱい助けておくことだ。助けられる時に助けておくのを怠ると悔いを千戴に残すことになるし、助けてほしいと思う時に救いの手が伸びてこない。 

「お前の心臓はもう四分(ぶ)しかない。生きて働いている部分は四分だ。残りの六分は壊死(えし)していて役に立たない。腐っているのだ。ただ腐っているだけならまだましだが、そいつが生きている心臓の働きの邪魔をしている。さなきだに力のない心臓の働きを、後ろから、そいつが引っ張る。だから役に立つ心臓の働きは、実際は三分ぐらいと思っていたら間違いない。これからは、お前はお前の年齢相当の働きの三分ぐらいの働きしかできない。働きばかりではない。日常生活のすべてにわたって三分、三分以内と肝銘せよ。もしも、間違って三分を逸脱したら、即座にお前の心臓はパンクする。即死である。いずれ、お前は早晚心臓発作で間違いなく死ぬ。同じ死ぬにしても穏やかに、お前に与えられた天寿を完(まっと)うさせて死なせてやりたいのが、せめてもの医者の温情というものである。その医者の温情に報いるためにも、三分の生活を拳々服膺(けんけんふくよう)して、ゆめ怠ってはならない」。

 これが退院にあたって、私に対する主治医・松村忠史医師の宣告であった。

 私は実際はもう活(い)きている人間ではない。あの烈しい心臓発作の起きた時に、すでにこと切れていたのである。今生きて歩いているのは私の幻(まぼろし)かもしれない。

 心筋梗塞の烈しい発作に苦しんでいる時、医師が、「今晩が山である」と家族に告げたそうである。その夜、報(し)らせを聞いて遠近から信者がおちばへ馳せ参じた。中には博多からおぢばまで、一時間四十分で帰ったという九州の信者もあった。みんな深更十二時、かんろだいに参拝して、私の延命祈願のおつとめをしてくれた。

 おぢばへ帰れなかった人は、大阪の教会に集まって、やはり深夜十二時、お願いづとめをつとめてくれた。

 主治医から峠を越して小康を得たと告げられるまで数日間、この祈願のおつとめは毎日続けられた。中には自分の命を五年、十年と縮めて、私の延命を祈願してくれた信者もあったそうである。

 その真剣、真実の願いを親神様がお受け取り下さって、絶えるべきところをつないで下さったのだと私は悟らせて頂く。

 だから私は辛うじて三分だけ、命がつながっているのである。これは私の命ではなくて、信者さんの真実分の命である。

 その信者さん方をおたすけする時、将来、私の延命祈願をしてもらおうと思って私はおたすけしたのではなかった。

 ひたむきにたすかって頂きたかったから、おたすけさせてもらったのである。それが運命のいたずらというべきか、繞(めぐ)り繞って私が、その方々によって命乞(ご)いをして頂くことになった。全く予期しないことであった。

 私はそれらの人々の命乞いの真実に報いるために、私と妻と夫婦がとぼとぼと通って来た道を、退院後、約一カ月余りの間に、なんしろ三分の命で先が急(せ)かれるので、大急ぎで書きおろした。本書を綴(つづ)った主目的はここに在ったのである。ありがとうございました。

 時恰(あたか)も、教祖百年祭の世紀の祭典をひかえて、西と東の礼拝場のご普請が着々と進められて、心の成人を今ほど急きこまれている時はない。まさに千載一遇のこの尊い時旬に、一人でも多くにをいがけ・おたすけに出て頂きたいと思う。

 論達第三号の中で、「にをいがけ・おたすけこそ、我我の生命であり、至上の使命である」と、お諭し頂いている。

 天理教の門外漢といっても間違いでないほど、お道の事情に暗かった私であるのに、この三十年、結構おたすけ一本で通ってこられて十分のご守護を頂いている。その私の通った、牛の歩みのような鈍行記録を、私は克明に綴った。その謂(いい)は読者のあなたが、これを読み終わって、彼にでもできた、私にできないはずはない、お道を通ってもおたすけしないと損だ。よし、今日からおたすけしようと起ち上がって頂けたら。

 そんな願いをこめて、私はこれを書きおろした。筆の運びがつたなくて、心ここにありながら、思いは遠く遥(はる)けくも届き難いのが甚だ残念に思う。

 格好や体裁を考えないで、おたすけ意欲をかり立てて、昔の先生方のように、こつこつと、埃(ほこり)をかぶって歩く泥くさいおたすけこそ、ひながたの道に一歩近づくことになると思う。

 教祖百年祭という、またとないたすけて頂ける絶好の時旬である。言葉だけの布教ではなくて、歩くおたすけにかえろうではありませんか。

昭和五十七年二月二十三日 

著者


芝 太七(しば・たひち)

明治45年5月16日、京都府に出生。天理中学、盛岡高等農林(現岩手大学 農学部)を卒業。大阪府経済部に勤務。昭和17年応召、終戦とともにシベリアに抑留、昭和22年7月復員、即入信。第77期修養科入学、昭和22年11月23日おさづけの理拝戴、この日から「1日1回以上おさづけの取次ぎ」の心定めをする。昭和26年大阪の地で単独布教。昭和29年4月 8日二代真柱から「はるのひ」の講名拝戴。昭和36年4月26日 教会設立。昭和56年5月26日、心筋梗塞を発病するが奇跡的な御守護を頂く。


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