『一日一回おさづけ』芝太七著_16)心定め通りの人生

 たんたんとなに事にてもこのよふわ

 神のからだやしやんしてみよ  三40

 めへめへにわがみしやんハいらんもの

 神がそれそれみわけするぞや  五4

私は、今六十九歳である。六十九年の人生を顧みてしみじみ思うことは、人間は生かされて生きているものだということである。自分では生きてきたつもりに思っているが、その実は生かされてきたのに外ならない。鯉が水の中で勢いよく生きている。鯉は自分の力で、自分の甲斐性で泳いでいると思っていたら大間違いである。実際は水を出た鯉は早晚死ぬ運命にある。水の中でこそ生きておられた、つまり水のお陰で泳ぎもできたのである。水に生かされていたのである。人間も鯉とちっとも変わらない。自分の甲斐性で生きてきたと思いがちであるが、真実は違う。神様の御守護の世界の中で生かされてきたのである。天地抱き合わせの神様の世界の中で生かされてきたのである。

 齢(よわい)六十歳を過ぎて、日が西に傾いてくると、初めて神様の教えが真実となって身に側々(そくそく)と迫(せま)ってくる。神様が人間の思いの外で人間の運命の糸を操(あやつ)っておられる。人間は神様に縛(しば)られた糸からは一歩も外へは出られない。私の甲斐性で生きてきた人生では決してない。だから、人間世界は銘々の人生が銘々の思いの外に展開することが決して少なくはない。神様が、人間の思いとは関係なく支配なさる世界であるからである。神様が一切を見ぬき見通されて、人間の配置をお決めになっている。人間の計算からゆくと、こんなつもりではなかった、人間の思惑からいうと、こんなはずではなかったと思うことがある。否むしろ、そんな予想外のことばかりである。当て外れのことだらけのように思うが、それは神様の勘定では予定通りであり、計算が合っているのである。つまり、この世界、人間世界の出来事は、神様の操られる糸の通りに動いているだけなのである。しかもその操られる糸と人間の願望や意欲との間には、何の脈絡も関連もないのではないかと私は思う。この世一切は、神様の思いのままの世界である。月日親神様の支配なさる世界である。

 私はこの重病を患って静かに考えた。私が天理教の教会長であるということが不思議でならなかった。私には奇想天外の出来事であった。少なくとも、三十五歳までの私には、天理教の教会長になるということは夢にも想像できなかった出来事である。私だけではない、その当時までの私を知っておられた人々も夢にも思い及ばなかったことだった。病院のベッドの上、常にそのことを考え続けた。何がどうなって、こうなってきたのか、我が人生ながら今在ること、つまり天理教の教会長であることが不思議でならないのである。神様の操られる糸の先で、操り人形のように私は手を振り足を上げ、首を回してきた人間であった。そして、その操り人形の行く先は糸を操っている神様だけが、シナリオ通りの芝居を演じさして、最後の結末をつけて下さる。そのシナリオは誰が書いたか。親が書いて、神様に届けておいたと私は思う。

 親が子供を妊娠している時に十月十日間、毎日々々丁寧に子供の生涯のシナリオを書いていたと思う。妊娠中は人生の苗代(なわしろ)である。苗代で立派に育った苗は本田に移植しても立派に育つ素質を持っている。妊娠中の親の心遣いは、そのまま偽りもなくその子の人生に展開されてゆく。十五歳までは親に責任があると教えて下さるように、妊娠中から十五歳まで親の心遣いがそのまま神様のお受けとり下さるところとなって、その子の人生の操り糸を手繰(たぐ)られることになる。だからお道では、子供のことに関しては親のさんげだという。そんな教理から思案させてもらうと、私の今日も決して偶然でもなければ、不思議でもないような気がする。

 私は京都府の最南端、奈良県との接点の田舎で生まれ育った。本当に草深い田舎である。 明治四十五年五月十六日に生まれたから、明治の空気はたった二ヵ月半しか呼吸してはいない。数えて八歳の時、夏休みに大病を患った。夏休みの始まる前後、近隣の友達と遊んでいて意識を失って倒れたらしい。遊んでいた記憶は、はっきりある。夢中になって、自分の高熱にも気がつかないで遊び回っていたのだろう。そして昏倒(こんとう)した。何日患っていたのかは知らない。気がついたら、布団の上に寝かされていて、両手を水の中に浸けられていた。なにしろ今から六十年昔のことだから、そして夜になったら梟(ふくろう)の鳴き声が聞こえてくる田舎のことだから、氷を売っている店がない。しかし、高熱は何とかして冷やさねばならない。田舎のことだから各戸に井戸がある。深い井戸の冷たい水をもらってきて頭を冷やすとともに、燃えるように熱い両手を洗面器に浸けていたのである。何日ぶりかで気がついて目が醒めた時は、私の枕許(まくらもと)で母が泣いていた。村にはたった一軒しか医者がなかったが、その医者がもう駄目だ、たすからんと言った。後日、夏休みが終わって初めて登校した時、受け持ちの先生が私を教壇に立たせて、こんなに元気になったとみんなに紹介したのを覚えているから、受け持ちの先生も見舞いに来て重病だということを知っていたのだと思う。今なら、日本脳炎か脳膜炎かという病気だったのだろう。医者は匙を投げるし、昏睡は続くし、母も半分は諦めていたのだろうと思う。私は四人兄姉で末っ子であった。母が四十歳の時に産まれた子供であった。だから母は私を他の兄姉達より一層かわいがった。そのかわいい子供が死ぬんだから、母は身も世もなく悲しかったに相違ない。私が目を開いたのを見た瞬間、私の小さな胸にしがみついて声をあげて泣いた。生きているうれしさだったのだろう。

 この大病の時に、母は心定めをしているのである。

「この子にもしも命があったら、この子を神様の御用に使って頂きます。神様の御用をさせます。神様に捧げます。だからたすけてやって下さい」と約束しているのである。それは真剣な心定めだったと思う。この以前から母は天理教に入信しているのである。どういう動機で入信したのか知らないが、とにかく熱心であった。上級の月次祭日と二十六日の御本部のお祭りは欠かすことなく参拝した。

 母は大病で助からない子供をなんとかしてたすけて頂きたい一心から、可愛い子供を神様にお供えしたのである。

 ここで私の一生の運命が定まった。私がこのことを知ったのは、私が道一条になって、単独布教にひたむきの苦労をしている時であった。私より六つ年上の姉が母から聞いていたのである。いつかこのことを私に知らせてやってほしいと、母に頼まれていたのであると教えてくれた。それで初めて私は謎(なぞ)が解けた。

 中学校へ進む時、私は天理中学へ行くことになった。私は京都府内に住居していたのだから、京都府の中学校へ行くべきであった。私の友達や同級生はみな京都府の中学校へ行った。母は、「お前は天理中学校へ行くのだ」と天理中学校を受験させた。私の家から西大寺までは一里余りある。県道といっても、そのころは野道同然であった。道の真ん中に石が出ていたり、埋れていたりして、とても道といえるようなものではなかった。冬は暗いうちに家を出て暗くなってから帰る。殊に、雨の降る日は歩いて往復する。なんで私だけがこんな遠方へ行かねばならないのかと思った。

 養子の話が出た時も、母だけが頻りに勧めた。父も兄姉もみな反対だった。本人の私は天理教嫌いで、初めから話にならなかった。一年間断り続けたが母は、「お前は芝さんへ行かねばならないことになってあるのだ」と強引に私に養子縁組を押しつけた。天理教の家へ行くことが、神様にお誓いした道へ一歩でも近づけると信じての上からだったのだろう。事実その通りになった。

 天理教を何も知らない者が布教に出て、教会になって、一体これはどういうことになってあるのか、本人自身が訝(いぶか)り不思議な成り行きに、あれよあれよと思っていたが、事実は親が筋道を書き目的を定めておいたのであった。その設計図通りを、親神様が人形の糸を操っておられたに過ぎないのである。親が約束した道を何も知らない子供が歩んで、歩むことによって不思議なたすけに浴してきた。

 本当に私はお道の信仰によって救われてきた。もし私がこの道についてなかったらと、仮定して考えると肌寒い思いがする。私のように悪い癖性分を人一倍たくさん持ち合わせている人間は決して幸せになれなかったろうと思う。我が身勝手で、強性で、欲が深くて、こうまんで負け惜しみが強くて、腹立てで、どれひとつを取ってみても幸せになれる性分は見つからなかった。この道の信仰に導いて頂いたお陰で、悪い癖性分はなくなってはないけれども、多少薄くはなってきているように思う。人の難儀を見過ごすことができないような性分に変わってきたのもお道のお陰である。昔の私だったら、気性が厳しかったから平気で人の難渋を見過ごしていただろうと思う。人は人、私は私とはっきり割り切る性分だった。それが多少ともやさしくなれたのはお道のお陰である。もしも私にお道の信仰がなかったら、私がやさしい心になって人をたすける心になっていなかったらと仮定したら、あの人は今ごろどうなっていたか、刑務所入りしていたかも分らない、一家離散していたかもわからない、 自殺していたかもわからない、そんなに思う人が十指に余るほどおられる。今は結構に幸せに暮らしておられるが、かつてはそんな路頭に迷われた日があった。偶々私がたすけ一条であったからたすけさせて頂いて今日の日がある。そんな良い思い出を持つことのできた私は幸せであり、それは、私が天理教の信者であったということに尽きると思う。有難いことである。ある人が私に、「旅に出ても大阪の方角を聞いてから寝るんです。先生の方へ足を向けて寝ないように床を敷いてもらうのです」。そんなことを告白して下さった方があった。私は本当に身に余る幸せだと思った。そんなに慕われるようになれたのもお道の教えのお陰である。

 教祖がある人に、

 やさしい心になりなされや

 人さんたすけなされや

 癖性分とりなされや

とお教え下さった。私もこの御教えを肝に銘じて、日々、我が心を見つめてやさしい心になれるよう、悪い癖性分を出さないよう、精いっぱいつとめさせて頂きたいと一層励んでいる。

 このみちハどふゆう事にをもうかな

 このよをさめるしんぢつのみち  六4

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