『一日一回おさづけ』芝太七著_15)父の伏せ込み

 昔聞いたことのある句に、

  梧桐(あおぎり)や琴屋(ことや)を待てば下駄屋かな

というのがある。梧桐が太くなって、切りに来てくれる人を待っているのである。俺は、こんなに立派に成長したのだから、きっと琴の材料に使われるであろう。だからきっと琴屋が切りに来てくれるはずだ。早く琴屋が来ないかなと思って待っていた。ある日鋸(のこぎり)を担いで人が来たので、琴屋がとうとう来てくれたわいと思っていると、傍まで来たら琴屋でなくて下駄屋であったというのである。琴になるのも下駄になるのも同じ梧桐である。しかし、琴になるのと下駄になるのとでは雲泥の差がある。琴になったら一生涯床の間に飾られて、舞台に出ては、妙なる音色を出して晴着の聴衆を魅了し絶賛を博す。下駄も桐で造られる。しかし、どんな立派な桐の下駄でも床の間に飾られたり舞台に陳列されたりすることはない。人に履かれて犬の糞も猫のおしっこも踏まれ、使い古した末はあっちに片方こっちに片方と捨てられる運命にある。琴になるのと下駄になるのとでは、将軍と足軽との差である。そんなら琴になるか、下駄になるかは誰が決めるか。琴屋が決めるか、下駄屋が決めるかというと、琴屋でも下駄屋でもない。桐自身の素質が決めるのである。桐自身の材質が良かったら、たとえ下駄屋が伐(き)りに来ても、これは下駄にしたら勿体ない、材質が良いから琴にした方が良い、と琴になる。材質が悪ければ、たとえ琴屋が伐りに来ても、これは琴にはならん、下駄しか使い途がない下駄屋へ卸(おろ)すということになる。琴になるのも、下駄になるのも誰が決めるのではない。桐自らの材質が決めるのである。桐は琴になることを願うことも焦ることもいらない。自分自身の材質を良くし、素直にさえ生い立って行ったら、琴にも箪笥(たんす)にも造られるのである。至極簡単な天の理である。 

 天理教ではこのことをいんねんの自覚という言葉で教えて下さっている。自分自身の徳、不徳が自分の運命を決めるのである。 桐がその材質を見極めて研磨することによって、下駄になる運命が琴にも箪笥にも変わるように、人間が己のいんねんを自覚し己の徳を磨くことが、自分自身の運命を難渋の悲境から陽気ぐらしの晴天に変えることができるのである。いんねんの自覚が出来て、それを作り変える努力さえ怠らなかったら、きっと陽気ぐらしが実現できるのである。 

 天理教で陽気ぐらしを教えて下さるが、その陽気ぐらしとはその銘々のいんねんを自覚しそれを作り変える日々の努力を積み重ねる結果、神様の恵みとして与えられるものである。だから、天理教の信仰はいんねんの自覚に始まり、いんねんの自覚に終わると言っても言い過ぎでない。

 父はいんねんの自覚の行き届いた人だったと思う。父は大和郡山市三橋町の出生である。父の母の出里は大和の竜田であったらしい。乾という姓を名乗った土地の素封家であった。その娘が、大和郡山市三橋町のその土地では資産家であった八尾家に嫁いで来ていた。これが父の母に当たる人であった。ところが、その母の実家の竜田の乾家が堂島の米相場に手を出して家産が傾き、遂に没落してしまった。八尾家で父の祖父に当たる人は昔風の封建的な厳格な人だったらしいので、没落した家から嫁をもらっていては家格が落ちる、釣り合わない所とは親戚関係は保たれないと、夫婦の仲を裂いて嫁(父の母)を離縁してしまった。今考えたら、想像もできないような離婚なのであるが、当時はそんなことが案外平気で行われたようである。嫁は誕生を過ぎた男の児を一人残して、泣き泣き竜田へ帰っていったことと想像される。実家へ帰らされてから、妊娠していることに気がついた。そして男の子を分娩した。それが父である。郡山の八尾家では、父の祖父が、離縁した嫁が実家へ帰ってから男の子を産んだことを風の便りで聞いて、その子は八尾家の子だ。うちの子だ。子供はかえしてもらわねばならんと、人を遣わしてその嬰児を盗ませた。こうして育ったのが父である。父の母はその後、大阪へ嫁いで行った。父は八尾家に連れてこられて、母なしに育った。だから父は常々、「私は母がありながら母に育てられなかった。母に育てられないのは徳のない人間や、わしは徳がないのや」。これは父の口癖であった。 

 子が母を慕う心は、今も昔も西も東も変わりがない。父も母恋しかったに相違ない。たずねたずねて、遂に探し当てた。どうして探し当てたのか、父から聞いたのでないから詳しくはわからないが、徴兵検査の後でとうとう探し出す。大和の田舎の青年が、花の商都の大阪へ出てきて、西も東も分からないのに恋しい母を探し求めて、遂に祈一念を貫き通して母を見つけた。父が世帯主になって、誰に遠慮気兼ねもする必要がなくなってからは、父は自分の母を養った。父の母は八十歳かの高齢で昭和十九年出直しているが、そのお葬式や世話取り一切は父が面倒を見たようであった。

 物心のつかない幼少の時に親に別れるのは、前生に親を捨ててきた理である。前生で親を捨てたから、今生は物心もつかないのに親に捨てられるのである。親に死別するのも生別するのも結局は捨てられたことになる。それは前の世で捨ててきた通りかえしである。人間というものは、一人前になるまでは親に面倒を見てもらうのが普通である。人間は成長して結婚し、第二の人生が始まる。そこまでは親に面倒を見てもらうのが普通である。それからは自分の人生になる。結婚するまでに親に別れるのは、捨てられたことになる。前生で親を捨ててきたぐらいだから親不孝である。親不孝を積み重ねてきたから、今生では苦労が多い。人間で苦労のない人はないが、親がない人と両親揃っている人とでは苦労が違う。同じように苦労していても、苦労のし甲斐のある苦労と苦労のし甲斐のない苦労とある。

 父はそのことを常々口にしていた。「わしはなあ、親がありながら親に育ててもらえなかった。だから仕甲斐のない苦労が多い。人間の親がいなくても神様が親である。人間の親に育ててもらえなくても、神様の親に育ててもらえる」と。父は幼い時から神様が親であり、神様に育ててもらっているという信念があった。これは父の骨の髄までしみ返っていたと思う。

 ある時、父が病気になった。腸の病気で下痢が続いた。最後には血の混じった粘液が出た。赤痢である。法定伝染病の疑いがあったので、医者に診てもらおうと父に勧めた。しかし、父は承知しなかった。何日か患って、もう極度に衰弱していた。その時、風呂を沸かせと言う。親神様に抱いてもらうのだ。親に抱かれたいから、早く風呂を沸かせ。私らはそんな無謀なことと、極力制止したが父は受け付けなかった。私と妻が父の左右から支えて風呂へ入れた。熱があるので、苦しくて眼も開けておれない。首まで湯につかった父は、「親神様に抱いてもらってええ気持ちやわ」と呟いた。不思議なことに、父の病気はその時を境に目に見えて快くなっていって、程なく全快した。父は、親神様が親である信条が、頭の中でなく肌で感じていた。それは幼い時から、神様を親として育ってきた集積がある。だから父は、親に尽くすこと、神様に尽くすことが生涯のすべてであったと思う。

 昭和十七年、戦争がいよいよ苛烈の度を増して、日本は軍国一色になった。何を思ったか、父は夕食の後で一家団らんしている時、「わしはなあ、七たび生まれ替わって七たび神様の御用させてもらうねで。それがわしの信念や」。そんなことを突然口走ったことがあった。 神様を親として慕ってきた父の信念だった。

 親に尽くす、神様に尽くす、それは父にこびりついた信念だったと思う。私は官吏として大阪府庁へ勤めていたころである。「お道になってくれ」それが父の口癖だった。「わしは一代お道を通ってきた。けれども一代は一代や、一代の御恩報じしかできなかった。反物にたとえたら前掛けや、前掛けは前掛けしか役に立たん。この前掛けを一反の反物に仕上げたいのや。一反の反物になったら着物にもなる、羽織にもなる、袴にもなる。役に立つ。一反の反物に仕上げるのはお前しかないのや。わしの前掛けを引き継いで、お前が一反に織ってくれ、役に立つ、御恩報じができるのや。芝家は昔から商売ののれんを掲げてきた。わしの代でそののれんをおろしたのや。こんどはお前が同じ大阪でのれんを変えてたすけ一条ののれんを掲げてくれ。お前しかできないのや。たのむ」

 これが父の口癖であった。遅蒔きながら、私は父の念願通り、大阪でしかも同じ天満の土地でたすけ一条ののれんに色替えして掛け替え、父の思いの一端を果たさせて頂くことができた。

 父は昭和四年九月二十日から昭和十一年六月十七日まで、治道中教会 (現大教会)の二代会長、昭和十四年五月七日から昭和二十一年五月五日出直すまで、宇佐分教会(現大教会) の五代会長を勤めさせて頂いた。一人で二つの直属教会長をつとめさせて頂くのは、当時では父が初めてだったと聞いたことがある。そういう体験からであろうか、父は私に、「わしは玄能(げんのう)の川流れや。頭を上げんと徳積みさせてもらうねん。その代わり、お前の代になったら芽がふいてくるで」と語っていた。父はそう信じていたようである。玄能とは金槌(かなづち)のことである。金槌の板は木である。金槌を川へ流したら頭は鉄だから重い、川底へ沈む、柄は木製だから軽い、上へ浮く。頭をすって川底へ流れてゆく、玄能の川流れとは、一生頭を上げない、表立って良い顔をしないという意味である。そして子孫が幸せになる種蒔きをするという意味である。

 父のひたむきな願いは、私が教会になるということだったように思う。その時に芽生えてくる種蒔きをしている、今自分のやっていることは子供の代で、教会になって花の咲く種蒔きをしている。そんな思いが、絶えず父の頭の中に潜在していたように思う。私に、「人の子は水臭いで」と呟くように洩らしたことがあった。父は人の子を育てて、それを身にしみて痛く感じたのだろうと思う。「我が子やないとあかん。人の子はなんぼ慈(いつく)しんでも水臭い。 人の子は人の子や」。 それは父が任された教会整理に当たって、心血を注いで丹精したのに、報われるものはなにもなかったという意味だったと、私は受け取った。自分の今やっていることはみんな伏せ込みである、お前のための伏せ込みである。お前の代になったら、芽を吹き、花を咲かせ、実を稔らせるのだ。だからお前が教会を作らねばならんのだ。これが父の論法であった。父がこんなに真剣に通ってくれた伏せ込みがあったから、私のような不徳で非才の者が名称の理を戴けたのだと思う。父の一代の伏せ込みの上に私は胡座(あぐら)をかいているのである。そうでなくて、どうして単独布教に出て来た者が、土一升金一升の大阪で、土地を求めて家を建て、教会名称の理が戴けるか。

 父が死の床についた時は、教祖六十年祭中であった。父の一念は、戸板を作らせ、戸板に乗って参拝した。ある本部員先生が、復員してお道になった私に語って下さった。教祖六十年祭のある日、祭典の最中、南礼拝場へ戸板が上がってきた。南礼拝場へ戸板で上がってくるなんて、誰のしわざかと一同が凝視したら、芝さんやったのや。芝さんらしいなあと感心した、と。父はなんとしてでも、教祖六十年祭を拝ませて頂きたかったのだろう。父の一念が通じて床の中で参拝できた。父はそういう信念の人であった。私の教会は、父のその一念が支えている教会である。いんねんが悪い、だからもっともっとこうのうの理を積まねばならない。いんねんが悪い、だから親神様に縋(すが)りついて親の御庇護(ひご)を頂かねばならない。いんねんが悪い、一代や二代では立て替わらない、末代に伝えて運命の立て替えを祈念しなけれならない。父の言動の一切は、そんな深いいんねん自覚の上から発していたのである。

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