昭和二十二年七月三十日入信してから、私はこの道一条に歩んできた。たすけ一条を金科玉条として日夜おさづけの取り次ぎに励み、おたすけこそ、この道の真髄であると信じて牛歩ながら遅々と歩ませて頂いてきた。
私は、毎月御本部の月次祭におぢば帰りしたら、教館でのお話は洩(も)れ落とすことなく聴いたものであった。また聴くのを楽しみに帰ったものであった。講師の先生はみんな異口同音に、こんな結構なおたすけが上がった。こんな沢山のおつくしがあった、こんな良い信者が出来たと、まるで木に餅(もち)が成るようなうまいお話をなさっていた。どの先生もどの講師も内容は殆ど変わりがなかった。御守護のお話であった。その先生方のところには砂糖に集まる蟻のようにたくさんの信者さんが群がり集まって行くようであった。信者とは団子を捏(こ)ねて並べるようにいとも簡単にできるが如しであった。それに引き換え、私はなんぼ歩いても、どんなに丹精しても信者は出来なかった。教館での先生方とは月とスッポンほどの懸隔(けんかく)があった。なんで私だけこんなに信者が出来ないのかと焦燥し煩悶(はんもん)した日もあった。むしろ懊悩(おうのう) の毎日であったかもしれない。最後に悩みぬいた結果、私なりの結論に到着した。私はこれで良いのだ。あの先生方はみな優等生で、特待生なのだ。それに引き換え、私は落第生なのだ。落第生のような布教をすれば良いのだ、落第生が優等生の真似をしようと思うから焦り悩むのだ。僕は落第生に甘んじて落第生の布教をすれば良いのだ。落第生でも布教さえしていれば、一年間に一人ぐらいは信者さんが出来るだろう。三十年間お道を通らせて頂いたとしたら三十人は出来るはずだ。よし、俺は一年間に一人ずつでいいから信者さんを作っていこう。どんな愚鈍な布教師でも一年間に一人ぐらいはたすけられるだろう。一人たすけたら良い、そして本当の信者さんを作ろう。心の底から教祖を慕い骨の髄まで親神様を信じることのできる信者さん、素直な信者さんを作ろう。私はそう思った。そして自らを慰めた日があった。そしてまた、そのつもりでおたすけしてきた。以来ちょうど三十年になる。だから三十人の真実の信者さんが今私の教会にはあるはずである。それが落第生の私のテンポである。顧みて当たらずとも遠からずの感じがする。
そんなにおたすけにひたむきに励んできて、今気がついたことは、人様をたすけさせて頂きたい一条だった私なのに、一番たすけて頂いたのは、外ならぬ私ら芝家であった。
既に触れたように、私の家、芝家は大昔から大阪の住人である。私の家は生っ粋の大阪人で、過去帳によると大昔は心斎橋に住居していたようである。父から六代前の先祖が天満へ移って麩(ふ)の製造を業とするようになり、降って近代経済社会に至って、乾物の卸商を経営することになる。父の代で六代目甚之助を襲名して、北海道、朝鮮はじめ日本全国に商線を張り巡らして手広く商業を営んでいた。父から伝承したところによると、昔は倉庫が三十六戸前もあったというから相当盛大に営業していたようである。家作も相当数はあった。私が父から譲り受けた時には、私は大阪府庁の官吏であったが、毎月月末は府庁を休んで家賃集めに回った。一日がかりであったほどである。
しかし、人間の家は良いことばかりが続くものではない。天は二物を与えずという。天理教では両手に花はならんと教えられる。徳のないものが、同時に二つの良いことは得られないものである。財産も欲しい、家族揃って健康でありたい。二つとも両立することは余程の徳のある人しか天は許してくれない。両方共得たいならば、過去幾代にもわたって余程の徳を積まねばなるまい。いずれか一つだけならば、神様もお許し下さる。けれども私の先祖は厚かましくも、徳もつまないで二つを求めたのである。それは天の許すところではなかった。芝家では、最初結婚した夫婦が共白髪(ともしらが)の末までも達者で揃って生かして頂くことができなかった。昔から五十歳過ぎて夫婦揃っていた夫婦が一組もないのである。最初結婚した夫婦が五十歳過ぎて揃えないのである。これはたいへんな悲劇である。
私の父は、新婚の私ら夫婦を前にして説教した。
「お金をたくさん持っていることが、幸せとは限らない。財産を山ほど多く持っている人が幸せとは限らない。人間最高の幸せは、最初結婚した夫婦が共白髪の末までも達者に揃って暮らさせてもらえることだ。どんなに貧乏していても、たとえ橋の下に住居していても、夫婦さえ揃っていたら、これが人生最高の幸せだ。これに勝る幸せはないのや。ところが、この芝家というのは運命が悪くて、その人間最高の幸せをずっと遠い先祖以来、誰も味わったものがないのや。お金は集まった、財産も出来た。けれども、お金や財産が人間を幸せにはしてくれない。わしもなんとかして、どんな犠牲も惜しまず夫婦長生きしたいと努めた。けれども、その願いは叶えられなかった。四十九歳で女房に死別した。五十歳までも揃えなかった。わしは四十九歳から一人になった。一人というのは寂しいで、そして不自由やで。そら娘もいる。女中もいてくれる。身の回りの世話はしてくれるから不自由はないが、女房やないとわからんことがある。女房やないと通じんことがある。その不自由に堪えてきた。親切な人もあって、後添いさんを世話しよう、後妻をもらえと勧めて下さった人もあった。わしは考えた。後妻をもらっても苦労や。もらわんかても苦労や。同じ苦労するのなら、後妻をもらわんといんねんを積まんと苦労さしてもらおうと考えた。だから後添いをもらわなかった。一人では寂しいし、不自由で苦労したで。火箸でもなあ、こうして二本揃っているから、炭もつかめる、火もつかめるのや。これが一本やったら、炭も火もつかまれへんで。不自由やで。わしはその一本の不自由に堪えてきたのや。この不自由、寂しさは、わし一代でもうこりごりや。こんなつらい思いは、子や孫の代にさせともない。わし一代で、もう十分や。だから、わしはかねがね神様にお願いをしてるねん。わし一代は一人身の不自由をさせて頂きますから、子や孫の代にはこんな不自由のないように、夫婦がいつまでもいつまでも揃って、達者で生かしておいてやって下さいと。これはわしだけではない。芝家の悲劇や。しかし神様はな。なんぼお願いしても、空願いはあかん、効き目がないで。鳥でも空鉄砲を撃っていたら、なんぼ撃っても落ちて来ないやろう。弾が入ってないとあかん。神様も同じや。弾入れなあかん。それでわしはなあ、結婚式が終わったら、お前らを新婚旅行にやってやろうと思っていたのや。たとえ二日でも三日でも、どこかの温泉へでもやってやろうと思っていたのや。けれどもなあ、旅行に行ったら種を食うことになるやろう。種は食うたらあかん。蒔くものや。春先に籾種を蒔く旬に、今お米がないからこの種食うたらおいしやろうと言って籾種を食うてしもうたら、秋になって隣の田んぼでお米をたくさん収穫していても、わが田んぼでは何も取れん。種は食うもんと違う。蒔くものや。お前らもなあ、新婚旅行の種を蒔いとかないかんやろう。だからわしはここに新婚旅行の費用を用意していたのやが、これを種蒔きにしようと思って二つに分けた。半分はいちれつ会に寄附するのや、あと半分は神様にお供えするのや。そしてお前らが夫婦揃って幸せに達者に暮らさせて頂けるよう、神様にお願いするのや。人間の命は、人間創って下さった神様でないと保証して下さらない。わしはこうして種を蒔いて、お前らの幸せを神様にお守りしてもらうと思う。神様のお供えは、わしは会計やからわしが持って行く、いちれつ会の寄附はお前ら二人で持って行け」
父はその時、本部の会計の御用をつとめさせて頂いていた。その当時、私らの住居は今の「憩の家」の入り口のすぐ西側にあった。今はもう取り除かれて道路になっているが、そこから本部の西門入った所に教庁があって、いちれつ会の事務所があった。道程にしてちょうど四丁の間隔である。私らの新婚夫婦は、その金封包みに入ってある寄附金を持って四丁の新婚旅行をしたのである。
以来四十二年間、幾重の道のりも曲折もあったが、六十九歳になって夫婦揃って生かせて頂いている。父が芝家の悲願といった願いが叶えられて、私たち夫婦は先祖が誰も味わうことのできなかった共白髪の夫婦揃った幸せを味わせて頂いている。私は満六十九歳、妻も同じ六十九歳。芝家で夫婦揃って生かせて頂いているのは私らが初めてである。
そして二人とも、神様の御用に心を合わせ、手をつなぎ、共々に苦労を通らせて頂いてきた。妻あってのこの道であった。
わかるよふむねのうちよりしやんせよ
人たすけたらわがみたすかる 三47
当時、何も分からなかった私たちに、父が幸せの種蒔きをしておいてくれたお陰で、心筋梗塞の身上も御守護頂けて、六十九歳にもなって夫婦揃って生かせて頂いている。
私は思う。私は今、父が母と死別して一人になった四十九歳を遙かに通り越している。そして夫婦揃っている。父はさぞ寂しかったろうな、父は、ようこそ一人で辛抱していんねんを残してくれなかったなあ、と。父に申し訳ない思いで一杯である。
芝家のもう一つの不運は男の子が育たない、男の子は夭折(ようせつ)するということである。男の子は生まれるのであるが若死にする。したがって、養子が多い。父も養子、私も養子。祖父だけは飛んでいるが、五代養子である。
私ら夫婦には五人の子供を授かっている。男四人と女一人、そのうち男二人と女一人は夭折した。残っているのは男二人である。この男二人も芝家のいんねん通り夭折の運命にあった。
長男が小学校五年生の時、私らの住居していた家の前で遊んでいた。ある日、私の長男もその友達五、六人と共に自転車競争をして遊んでいた。私の長男の番になった。往きは良かったが復(かえ)り道になって、子供心に、俯(うつむ)いてペダルを踏んでいる反対側を、向こうから中型のトラックが来た。俯いてペダルを踏んでいる長男はトラックの来ることには気がつかないで、ペダルに力を入れ過ぎてハンドルが勝手に動いてトラックに飛びこんだ。トラックの運転手が気がついた時は、もう遅かった。子供を引き殺したと、恐る恐る降りてみたら、子供はトラックのエンジンの真下で正座して座っていた。運転手に連れられて子供は帰って来た。運転手は、「トラックの前には障害物がなかった。向こう側を子供が自転車で走っているのは見えていたが、まさか自動車に飛びこんでくるとは思わなかった。気がついたらもう遅かった。急停車したが間に合わなかった。この子供は自動車に当たって一メートルほど跳ね上がって落ちた。そして自動車は停まった。自転車は右前輪に巻きこまれて壊れてしまいました。この坊やはエンジンの下で正座していました。両脇に手を入れて支えたら立てました。お前の家までつれて行ってくれとそのまま歩いてきました。ボンネットが凹んでいますから、何処か打っているに違いありません。すぐ病院へ行って精密検査してもらって下さい」と、名刺を出して名のられ、逃げも隠れもいたしません、責任を持ちます、と言明なさった。長男はびっくりしたのか、顔色がなかった。膝から下についている土を払ってやって、全身に手で触ってやったが、どこも痛いとは言わなかったので、病院へも行かずにそのままにしておいた。結局無傷であった。
弟の方も同じ道路である。三歳ぐらいで、遅まきながらこの子もヨチヨチ歩くようになった。宣伝車が停まっていた。音楽を鳴らしたり宣伝していた。この子供は音楽が流れてくるのが面白かったのか、自動車のまわりで遊んでいた。そのうち車のバンパーでブランコした。 別にぶら下ったのではないだろうが、バンパーにくっついて遊んでいたのだろうと思う。宣伝車は用事が終わったので動いた。運転手からは死角になって子供が見えない。子供はバンパーにくっついていたのが突然動いたのでその場へ振り落とされた。その上を自動車が走り去った。幸いにその場の傍で、ご婦人の方が家の前で洗濯しておられた。その婦人が子供の遊んでいるのを終始見ておられた。自分の目の前の出来事なので、バンパーに凭れてたわむれていた子供が、自動車が動いた拍子に振り落とされてその上を自動車が走って行った。びっくりしたのは、婦人である。驚いて立ち上る拍子にひっくりかえったと言う。妻が急いで行ったら、子供は道の真ん中で転がって泣いていた。起こして汚れを払ってやったり、身体のあちこちを触ってやったが、痛いところもないし、血の出ているような所もないので、そのままにしておいた。結局何の怪我(けが)もなかった。
二人の男の子は今は成長して結婚し、それぞれ兄には三人、弟には一人の子供を授けて頂いて、共に神様の御用にいそしませて頂いている。二人とも自動車事故で死ぬところであったのである。芝家のいんねん通りなら、この男の子たちも夭折したはずであり、そしてそれが芝家の当然の運命であったのである。
神様はゆめ油断してはいけないよ、と理をお見せ下さったのであると信じる。芝家は本当は男の子が育たない、育つ徳を積んでないのである。我が身、我が家のことばかりに心をとらわれて、人のため世のためなど考えてもいなければ尽くしもした人はなかったのである。徳を積んだ先祖は誰もなかっただろうと思う。だから男の子はみな育たない。お前らも、芝家のいんねん通りならば、このように交通事故ででも二人とも短命に終わるところなのだ、しかし、こんどだけはお前らは我が身我が家のことを忘れて、ちょっとばかり人だすけに働いている。その働きは太平洋の一滴の水にも及ばないが、神様はそれでも真実として受けとってあげる。この事故の理をもって全体を良く思案せよ、芝家のいんねんの深さをとくと肝に銘じておけ。そう神様はおっしゃって、二児の事故の理をお見せ下さったものと私は信じている。つまり、届かないながらでも、トボトボと一年に一人ずつの信者さんを作らせて頂こうと歩んできたその道でも、神様は重い芝家のいんねんを軽やかにして下さったのだと私は信じている。
かって芝家は妻だけ、ただ一人であった。昭和十七年、私が応召して出征する時、芝家で残った人は父と妻と娘。つまり一代に一人、計三人であった。昭和二十年には娘が出直して二人になった。翌昭和二十一年五月父が出直して、残ったのは妻ただ一人であった。たった一人が芝家の家族であった。まさに風前の灯(ともしび)である。芝家滅亡の寸前である。昭和二十二年には、私が復員して芝家は二人になった。翌昭和二十三年には長男が生まれた。家族はやっと三人になった。そして今では十人になった。芝家の家族が十人になったのは、私の知る限り今だけだろうと思う。こんな栄えをお見せ頂いたのは私が初めてだった。滅亡の寸前までいったものが、同じ私の代で十人まで増やして頂いた。こんな結構な有難いことがまたとあろうか。しかも祖父夫婦、息子夫婦、男の孫と、男三代現存することは芝家の家系の中でかつて見られないことであった。芝家にかつてない御守護を頂いたのは、芝家にとってかつてないことをしたからである。商売に夢中になり、損得にうつつをぬかしてきた芝家は、七代目にして滅亡の寸前まで行ってしまった。父の代になって初めて芝家がかつてしたことのないたすけ一条に出た。
そして私がその後を継いだら、芝家にかつてない栄えをお見せ頂いた。御守護を頂いた。天理の明らかに示すところである。芝家の運命が切り替わったのである。親神様は本当にあたたかい親心に充ち満ちたお慈悲を下さるものである。神様のおっしゃることなら心を入れ替え思いを立て替えます、人さんたすける心になります、人をたすけます、と方向転換して、わずか一代か二代、それもトボトボと牛歩の歩みを続けてきただけだった。それだけでも、神様はこんなにも結構をお見せ下さるのである。親は本当に有難い。これぞ親心である。それほど親はたすけ一条をお望みであり、お待ちかねである。
しんぢつに人をたすける心なら
神のくときハなにもないぞや 三32

