『一日一回おさづけ』芝太七著_13)名称の理に神が働く

 教会になるつもりでなかった者が教会になった。教会を作ろうと思って大阪へ出てきたつもりでなかったのに教会になってしまった。教会生活を経験したことのない私には、教会とは何をしたらいいのか、何をなすべきか、どういうことをしたらいいのかさっぱりわからない。無我夢中であった。何をしたらいいのかわからないうちにも、おたすけだけは相変わらず精勤に励んでいた。そのうちになるほどなあ、と思うことが少しずつ現れてきて、これが神様の御守護かとわかるようになってきた。つまり珍しいたすけが現れてきた。これが教会名称の理のお働きかと、納得のいくおたすけが現れるようになってきた。教会名称の理に神様がお働き下さっているということが、はっきりわかるように不思議なおたすけをお見せ下さるようになってきた。

 今ここにその一つの例を挙げてみよう。

 風の便りで、Kさんが肺結核で寝ていると聞いたのは、私がまだ修養科の講師をつとめさせて頂いて間もない昭和二十三、四年のころであった。大阪のKさん宅へおたすけに行った。Kさんは二階で遊んでいた。いろいろと話をしているうちに、肺結核と十二指腸潰瘍であることがわかった。しんどそうにしてゴロッと寝たり起きたりしていた。時々、思い出したように、床の間の小箱の中から注射器を出しては自分で皮下注射をしていた。隣の部屋にはKさんの父親らしい人がいて、Kさんの部屋を通る。手洗いに行くのか、何か用事でか知らないが、偶々(たまたま)Kさんが注射をしているのに出遭うと、「こいつは注射ばかり打ちやがって」と叱るように言い捨てていく。

 私はこの親は訳のわからん人だなあ、肺結核と十二指腸潰瘍を治すために注射をしているというのに、息子が可愛くないのだろうか、と思ったりしていた。Kさんはまるで未信者であるから、訳はわからなくてもよいから修養科へ入りなさい、私が責任を持ってたすけてあげるから私のところへ来なさい、と勧めたがもう一つ煮え切らない。勧めておいて帰ってきた。その後も、何回かKさんを訪ねては修養科を勧めた。

 そのうちに月日が過ぎて、昭和二十五年五月になった。ある日Kさんが私を訪ねてきた。とうとう私を頼って来てくれたわい、と私も勇み心で出迎えた。Kさんは玄関の昇り口の柱に凭れかかって挨拶もぬきにして、「医者へつれてゆけ」と言う。「とにかく、上へのぼりなさい。畳の上へ座って落ち着いてから、用事があったら言いなさい。ここは天理教を信心している所で、病気も事情もみな神様の御守護を頂くようになっているから、一旦は畳の上へあがりなさい」。 いくら言っても聞かない。「ここの家にはここのかかりつけの医者があるだろう。その医者へ連れてゆけ」。まるでイモリのように柱に凭れついて、精気も活気も根性も抜け切ったもぬけの殻のようにへばりついて、その癖、医者へつれて行けだけは執念深く押しつけるのである。ここは天理教で医者とは関係ないのだと、いくら言っても聞き入れない。よその家へ来て上へもあがらずに、玄関の昇り口で腹が痛いから医者へつれてゆけとは、何という非常識かと思ったが、私が修養科へ来なさいと誘って来たのであるから仕方がない。

 とうとう根気負けして、修養科生に「よろづ相談所附属病院」へ連れて行ってもらった。お昼前であった。昼が過ぎても帰ってこない。夕食時も帰って来ない。病院はもう閉まっている。探すにも探しようがない。夜は更けてくるが、帰って来ない。私も寝るに寝られない。すると、夜中の十二時ごろである。岩井病院からの電話で、お宅様にKと言う人がおられますか、その人が岩井病院の玄関先で座りこんで、病院を閉めようとしても閉められません、早く迎えに来て下さい、とのこと。連れて行ったのは「よろづ相談所」、電話で迎えに来いといってきたのは「岩井病院」。これはどうなっているのだろうか、私もどうなっているのか訳もわからないままに、その夜は更けているので不問にして寝かせた。夜が明けたら、腹が痛いと大騒動である。腹が痛い、腹が痛いと怒鳴り散らすので、詰所の人々も嫌がって近寄らない。私も心配だから、よろづ相談所へ電話して医者が出勤して来られたらすぐ往診して下さい、と頼んでおいた。医者が来て下さったのは午前九時過ぎである。神尾知先生が来て下さった。私は恐縮して院長先生自ら親しく往診して下さって申し訳ない、と痛み入って病人の部屋へ案内しようとしたら、先生は、「いや、私は往診に来たのではありません。芝先生に用事があってお話ししたいのです。だから先生の部屋へ案内して下さい」とのこと。私はぽかんとした。私に何の用があるのか、おかしいなあと思ったが仕方がない。先生のおっしゃる通り、私の部屋へ案内した。 

 差し向かった時、先生は、「実はお宅におられるKさんのことで来たのです。あの人は言っている通りに肺結核かもしれません、十二指腸潰瘍かもしれません。詳しい検査をしていませんから断定はできませんが、触診ではぼ見当がつきます。しかし、あの人はもっともっと恐ろしい病気を持っている人です」。

 当時、肺結核は不治と言われて恐ろしい病気であった。十二指腸潰瘍もなかなか治り難い病気であった。その上にもっと恐ろしい病気とは何だろうと思って、「先生何の病気ですか」とおたずねすると、「モルヒネの中毒患者です。それも昨日や今日の新しい患者ではありません。余程古い病歴を持った患者だと思います。昨日私の病院で診察に当たった医師と争いが出来ましたので、私も責任上出て行って診ましたが、強度のモルヒネ中毒患者で、あれは私らでは治りません。昨日もモルヒネを注射せよと大分暴れましたが、私らは良心に訴えて絶対注射しませんでした。あの人を治すことができるのは、私ら医者ではなくて天理教布教師の先生より外ありません。芝先生があの人を治してあげて下さい。今日はそれを言いに来たのです。よろしくお願いします。さようなら」と帰ってしまわれた。

 この時、私はKさんがモルヒネ患者であることが初めてわかった。しかし、その時私はモルヒネ患者とはどんなものか経験したことがないから、その恐ろしさがわからなかった。昨日私のところへ来るなり、腹痛や医者へつれてゆけとごねたのは注射の禁断症状になっていたのである。「よろづ相談所」では注射を打ってくれなかった。だから天理の医者を転々と歩いたが、どこでも打ってもらえなかった。最後に行った所が「岩井病院」であった。ここでも打ってもらえなかったので、夜遅く玄関に座りこんだのである。これでなるほど、「よろづ相談所」へ行ったのに「岩井病院」から電話のかかって来た意味がわかった。

 神尾先生のおっしゃったように、この人をたすけるのは宗教家しかなかった。何とかしておたすけさせて頂こうと私もその気になってKさんに対した。とにかく修養科へ入学させることだ、と思ったから、その月の月末、修養科の試験を受けさせた。試験から帰って来たKさんは、「修養科というところは良いところですな。あんなに良いところなら学校が始まるまで待っているのがもどかしい、早く勉強したいと思うので、本を買いたい。五百円だけ本代を貸してくれませんか」と言う。学校が始まってからで良いというのに、Kさんは早く勉強したいと言って譲らない。仕方がないので、悪いことではないし五百円渡してやった。すぐ帰って来るように言ったのに、お昼には帰ってこない。夕食にも帰ってこない。大阪へ逃げて帰った。

 修養科は肺結核で落第。レントゲン写真を見せてもらったら、左右の胸に紋付のような空洞がある。大阪へ呼びに行ってつれて帰る。しばらく神妙にしているかと思うと、また騙(だま)して金を取って大阪へ帰る。それを幾度か繰り返しているうちに、私も尋常の手段では駄目だと思った。本人に因果を含めて監禁することにした。四畳半の部屋へ監禁して一歩も外へ出さないで、私は部屋の外で監視していた。こんなことをするのは、私は生まれて初めてであった。不本意だが何とかして治してやりたい一心だったし、Kさんも治りたいのである。麻薬の苦しみから何とかして脱却したいのだが、それがいんねんというものであろう。注射をせずにはおられないのである。最初の間は麻薬の切れて行く苦しさでドタンバタンと暴れていた。二、三日すると、苦しみ出して吐気がしてきたので洗面器を入れてやった。食事は何も食べさせてないので、出るものは胃液だけである。その胃液の色が青黄色で透き通っていて必ずしも汚い感じがしないのである。満々と二杯吐いた。私が棄てたのだからよく知っている。これがモルヒネの毒素かと恐ろしくなった。

 ちょうど七日目になると、生気が見えてきた。吐き終わってから二、三日は蛙をぶっつけて踏み殺したようにピタッとふとんの上にヘばりついていたのが、頭ももたげるし、手足も動かすようになってきた。そして甘いものをくれと言うのである。当時は、まだ砂糖が配給制であったので、砂糖製品は店頭で売っていなかった。それで、私共の配給の砂糖を茶飲み茶碗に入れて差し入れてやると、むさぼるように一杯、二杯と舐(な)めた。それから重湯(おもゆ)、お粥(かゆ)と進んで二週間ほど経った時には気力も正常に復した。あんなに苦しんだのだから、もうモルヒネからは縁が切れたと思った。Kさんも、もうあの注射はこりごりだ。モルヒネの毒がとれたのでこれからは大丈夫である、と言う。私もやれやれ寝ずに番をした甲斐があったわいと安堵した。安堵したのがいけなかった。気を許した隙にKさんは外へ出た。そしてモルヒネを打っていた。

 この人は自分で注射することもあるが、医者に打たせるのが多いのである。医者に打たせる時はただで打たせる。Kさんは医者にモルヒネを注射させる時はこういう手段を採るのである。主に産科の医院を選ぶ。いきなり診察室へ飛び込む。産科医院だから患者さんは婦人である。診察室へいきなり男の人が飛び込んでくるんだから、患者さんも驚くが医者も困る。そして、腹痛だと暴れる。その腹痛のゼスチャーがまたうまい。もう長年の経験で堂に入ったものである。女性ばかりの所へ男の人が腹痛だと暴れられたら医者の商売は上がったりである。といって腹痛の病人を追い出すわけにはいかない。医者だから緊急の処置はしてやらねばならない。Kさんは痛み止めの注射をしてくれと訴える。医者は乞われるままに、鎮静剤を注射しようとしてアンプルを持ったら、Kさんは鋭くそれを見ていて、その注射は効かんと言う。俺に効くのはモルヒネしかないのだと言う。その時になって、医者がこれは麻薬患者だと気がついてももう遅い。Kさんは何時間頑張ってもいいのである。仕事がないから。医者はこんな者に頑張られたら商売は上がったり、医業妨害である。早く帰ってもらいたいために、泣き泣きでも注文の注射をする。またKさんの所望する注射薬を一番たくさん持っ ているのが産婦人科医なのだそうである。Kさんはそれを見込んでの芝居である。こうしてKさんは一銭もなくてもモルヒネを注射するのである。一度注射したらもうそれが蟻(あり)地獄で ある。またこんども入って行く。医者は麻薬中毒とわかって断っても、Kさんは居直る。実に悪辣(あくらつ)非道である。

 天理と大阪を何回か行きつ戻りつした。あんまり私の親切を無にし、不義理をしたので、さすが厚顔無恥(こうがんむち)のKさんも私の所へは来られなくなった。大阪でモルヒネの注射を打ち続けていた。当時Kさんは、以前両親と共に住んでいた家が戦災で焼失していたので、姉の嫁ぎ先で居候(いそうろう)していた。食費も入れないで居候し、時には姉の物を持ち出したり姉の財布を盗んだり、姉の主人の金を持ち出したりしてモルヒネを打っていたので、姉さんの家の人は目に余っていた。Kさんは姉の家の諸悪の根源になっていた。とうとう姉の家におられなくなった。

 今さら天理へも行かれないし、仕方がないので、友達(戦友でKさん同様の悪党である) の所へ行って、身の振り方を相談した。この上は仕方がないので、天理の芝さんの所へ身を預けにゃならんと思うが、さんざんに迷惑をかけているので今さら頼みますとは言われない。お前俺をつれて天理へ行ってくれと頼んだ。この友達なる人は、その以前に私を騙して金品を盗っているので、これも厚かましくて行けない。しかし、Kさんの手前そんな内実は言えない。仕方なしに請け負うてKさんをつれてお菓子を手土産(この男は絶対出さないのであるが)に高い敷居を跨(また)いで私の所へ来た。顔を出せた義理ではないが、たすけてやってほしい。この上は芝さんにお願いするより外ないのでお頼み申します、と言う。鎖で柱に縛りつけても承知か、と念を押しても結構ですと言うので、柱に縛りつける条件でまた引き受けることになった。私もだいぶ中毒患者の要領がわかってきたので、酷(きび)しく所遇する心になった。とにかく、何とかして修養科へ入れねばならん。修養科へ入れたらたすかると思ったから、修養科へ入れるために苦労した。しかし、Kさんは肺結核だから修養科へは入れない。入れなかったらこの人はたすからん。修養科は人をたすけるために設けて下さった施設だ、それ ならばこの人もたすけて頂くために修養科へ入れて頂くことができる訳である。ただそれが結核予防法という人間の作った法律で阻まれているだけである。神様の思召は飽くまでも入れてやりたいのだから、神様の思召に添わせてもらった方が神様はお喜びのはずだと、勝手に理屈をつけて、同じ年ごろの人を雇ってきて修養科入学の替え玉に使った。そしてまんまとKさんは修養科生となった。

 修養科生となっても、天理の医者は大抵荒らしまくった。神様はそのうちに何かでお知らせ下さるだろうと思って、私も気長に構えた。Kさんは本来賢い人だから修養科の先生のお話はわかるはずであるし、おてふりもよく勉強した。私も酷しく仕込んだ。行きつ戻りつの道中を通って、ようやく修養科も修了してくれた。そのころは私も大阪で布教していたので、大阪の布教所へ住み込ませた。けれども、この男は例の手段を使って無銭でもモルヒネの注射をするのでその監督はできなかった。ちょっとでも苦労させた方が良いと思った上から、お前も単独布教に行ってみよと布教所を出した。出る時に当座の小遣いに若干のお金を持たせた。出て行った後で気がついたら、賽銭箱をひっくりかえして中のお金をみんな持ち出して行った。賽銭箱泥棒も、この男は平気でやるのである。一週間ほど経ったら帰ってきた。墓場で寝たとか、犬小屋で犬と一緒に寝たとかで、和歌山まで行って帰ってきた。もう単独布教は嫌ですと言う。修養科を出てもモルヒネはちっとも御守護頂かない。Kさんには年老いたお父さんがあった。お母さんはKさんが復員する前に出直した。お母さんは徳のある人だった。Kさんのモルヒネ中毒の姿を見ずに死んだのだから。お父さんが中風になられた。本来ならば、Kさんが養わねばならんはずであるのに、それを嫁いだ妹に委せきりである。妹こそ可哀そうなものだ。主人にも気兼ねせねばならんし、中風のお父さんの食事からすべての世話をせねばならない。Kさんは時々お父さんの所へ行く。妹さんが玄関に上等の靴を脱いでおいたらそれを持って走る。質に入れたらもう戻ってこない。お父さんが中風でも、時々ふとんの上に上半身を起こすことがある、お見舞のお客さんが来られて上半身を起こした時に肩に羽織るように上等の丹前を作っておくと、Kさんはこれはいい、モルヒネの種になるわいと持ち出してしまう。質に入ったらもうかえってこない。妹さんも泣きの涙である。姉も妹もこの世の中に神様が本当にあるのだったら、なんであのKを生かしておかれるのだろう、神様はいない、あんな悪党のKを生かしておくのだから、と嘆いていた。戦争で死んできてくれたら良かったのにと悲嘆に暮れていた。

 私がおたすけに一生懸命に通っていた家があった。奥さんが脊髄カリエスという病気で寝たきりであった。もうまる二年も寝たきりであった。にをいがけに行ったら最初断られた。けれども根気よく通った。断られても嫌がられても根気よく通ったら、とうとう上へあがっても良いということになった。奥さんは二階で寝ておられた。それから毎日々々通った。遂には奥さんが私の話を聞きたいと待って下さるようになった。私が行ったら喜んで神様のお話を聞いて下さるようになった。半年通っている間に身体の調子も快くなった。家庭のことも、店のことも、家族のこともなんでも私に相談して打ち明けて下さるようになった。私をすっかり信じて下さって、ある日のこと、私が教祖の七十年祭が近くにある、年祭のために今天理教本部では「おやさとやかた」という、とても大きな建物を建築中であると常々話していた。するとこの奥さんが、「私、今へそくり七万円を持っている。私は寝たきりだからお金は役に立たない。教祖七十年祭にその七万円を使ってもらいましょう」と言われた。私は教祖七十年祭に良いお供えになるとうれしかった。奥さんが、「今その通帳を渡しましょうか」と言われた。「はい頂きましょう」と言えば良かったのに、「あのタンスの底にありますのや」と言われたので、脊髄カリエスで寝ているこの奥さんが立つのには女中の手を借りねばならんし、痛い痛いと連発して立つのがお気の毒と思ったので、「便所へ立たれたついでにでも出しておいて下さったら毎日来るのですからいつでも頂きます」とつい言ってしまった。これが未熟な布教師の失敗であった。おつくしはその時に捥(も)ぎ取るようにしなければ相手はたすからんということが後でわかった。翌日行ったら、もうあの通帳のことには触れないのである。私もあの通帳をと、言いそびれてしまった。そのうちにまた機会があるであろうと思っていた。それから間もなくである。おたすけに行ったら、この奥さんの様子が違う。奥歯に物の挟まったような口振りである。変だなあ、と思って私の方から何かあったのかと伺った。奥さんは初めの間は隠しておられたが、私が念入りに聞いたので、「先生のところにKという人がいますか」「ハイおります」「その人が昨日、先生がお帰りになると、入れ替わりに入って来られて、主人に『お金を貸してほしい。今先生が帰ってこられて急に神様のお道具を買わねばならないことが出来て、お前借りに行ってこいと命令されたので来ました』と言われる。うちの主人はものすごいけちん坊で、人に金を貸すような人ではないのですが、天理教の芝先生なら絶対に信用しているのでお貸ししました。ところがそれから先生の所へ出入りしている知り合いの人があるので、その人に聞いたらKという人はモルヒネの中毒患者で、信者の家へ金を借りに回って信者の顰蹙(ひんしゅく)を買っていて、みんながあんな人死んだら良いのに、と噂しているとか。うちはまんまとお金を騙し盗られた。あんな人をようたすけん神様なら、私もたすけてもらえないと思います」と言う。

 信用を失った天理教の布教師ほど、惨めなものはない。何の弁明もどんな言い訳も通用しない。とうとうおたすけに行かれなくなった。その晩、Kさんはとうとう帰ってこなかった。四、五日は帰ってこなかった。その当時の五千円は値打があったから、使い果たすまで五日ほどは外泊していた。私が脊髄カリエスのおたすけをしてその家を出る時に、隣の家の影にかくれていて私の過ぎ去るのを見届けて入って行った、とわかった。

 七万円の金を使い果たしたら、また帰って来た。その晩、私はもう辛抱できなくなった。「この広い世界の中には心の歪んだ人、悪いことする人がいろいろある。しかし、お前のように、面倒見なければならない親を妹に委せきり、その親の丹前まで質に入れて注射を打つ。世話になっていて大恩あるわしの裏をかいて、おたすけ先から騙して金を盗るような奴は人間じゃない。お前のような人間のことを人面獣心と言うのだ。人間の面はしているが心は獣だ。今日限り、ここには泊めん。これから出て行け。西へ行け、どんどん西へ行け。神戸、姫路、岡山、広島と西へ西へ行ったら、最後には海がある。その海へドボンと飛びこめ、飛びこんで死んでこい。そこへ行くまでに今はちょうど秋だ。お百姓さんが稲刈りをしていたら、頼んで一束の稲を刈らしてもらえ。芋掘りしているお百姓さんに会えば、私にも一鍬の芋を堀らして下さいと頼んでひのきしんさせてもらえ。お百姓さんが、『あなたのおかげで今日は半時間早く仕事が終わりました』と一言でもお礼を言って頂いたら、それが地獄へのお前の一番良いお土産だ。その一言を土産にして海へはまって死んでこい。さあ出て行け… …」と送り出した。もう深更十二時を過ぎていた。

 秋深く空には満天の星であった。トボトボと西の方へ暗がりに消えてゆくKさんの後ろ姿を、私ら夫婦は涙と共に送った。親神様、あんな極悪非道な人間でも、どうぞたすけの手を差しのべてやって下さい、と西の方を向かって合掌した。二、三日経った日のお昼ごろ、私は家にいた。隣が炊事場になっているのだが、妻が誰かと話をしている。お客さんが来られた様子もないのに、おかしいなと思って隙間から覗いたら茶碗に一杯御飯を盛ってKさんの写真に陰膳をしているのである。「Kさん、お腹一杯食べなさいや」と呟いているのであった。これは妻の真実でたすけて下さるかもしれんと思ったが、一週間もしたらひょこっと帰ってきた。さすがにすぐには家の中へは入らないで、戸口で妻と話している。妻が何か与えた様子だった。私が窓から外を見ていると、今妻からもらったばかりの新聞紙の包みを大事に抱えて、出たところの曲がり角まで行って石垣の上に腰を掛けて新聞紙を開けて蒸かしたサツマイモをさもおいしそうに食っている。そのうちに、いつとはなしに家へ入りこんでしまった。私の信者の家へ頼みに行った。そこの仕事に使ってもらうようになった。モルヒネの注射はやはりやまない。乱行は続いていたが、最後に神様の鉄鎚(てっつい)が下った。大喀血である。店主から知らせを聞いたので走った。床の中に寝ていて、あたりは血だらけである。仰向(あおむ)けに寝ていて、ちょっと横向いたらゴボゴボと音を立てて血が出てくる。私は天理の「結核療養所」で六ヵ月つとめて、たくさんの喀血を見てきた。私もまた喀血したが、Kさんの喀血のようにすさまじいのは見たことがなかった。暫くは自宅療養をしていたが、個人ではどうにもならないので、市民病院に収容して頂いた。入院後手当ての結果、喀血は止まった。止まったら、もうモルヒネである。私がおたすけに行ってもベッドに寝ていたことは殆どなかった。いつも留守であった。モルヒネを注射するために看護婦や医師の許可もなく病院を脱出する。そしてモルヒネの注射をしてくれる医者を探し回るのである。

 ちょうど盛夏を迎えるころであったが、炎天下を歩くものだから顔は日に焼けてまっ黒、 肺結核とモルヒネで食事を取らないから痩せて頬の骨が痛々しく突っ立っていて、あたかも猿のような顔、歯だけが白いから口を動かしたら凄味(すごみ)があって気持ちが悪い。とうとう、病院の方でも堪忍袋の緒が切れたのであろう、看護婦長から私とKさんの姉に呼び出しが来た。 病院へ行ってみると、Kさんは病院の規則を守らない、朝食が済むと無断外出である。一日中歩き回って夜帰ってくる。同じ入院患者から金を借りて返さないから、患者が皆怒り出した。こんな患者はこの病院始まって以来初めてである。病院では、これ以上責任が持てないから強制退院処分にする。あなた方が引き取ってくれ、ということになった。病院でも手に余るのに私らではどうにもならない。この上は鉄格子の入った病院へ入れなければならん。

 私立の精神病院へ入れた。姉妹は喜んだ。もう一生あの病院へ入れておいて下さい。今日から枕を高くして寝られます、と喜んだ。これでやれやれと思っていたら、一ヵ月ほどしたら退院してきた。おかしいな、精神病院は引き受け人がなければ出さないはずだが、誰が引き受けしたのだろうと思って姉妹に当たったら誰もない。本人に聞いてみたら、入院して二十日ほどもしたらモルヒネの中毒は一応取れる、中毒が取れたら常人と変わらない。あんたは病人じゃないから出て下さい、と退院して来たと言う。

 次に府立の精神病院へ入れてもらえるようになった。もうこんどはちょっとやそっとでは出られない。これでやれやれと、姉妹も安堵した。もう一生あの病院へ入れておいて下さい、私に嘆願なさった。私もおたすけに通った。ちょっと遠方になったが、一日がかりなら往復できたので、おたすけに通った。

 ちょうど一年経った時である。Kさんはもう中毒の気もぬけて常人と変わらない。もう一年経ったなあ、早いものだなあ、とKさんと話していたら、「先生! もう一年経ったから出して下さい」と私に頼む。「あんたの姉妹は、一生ここへ入れておいてくれと頼んでいるのだ。お前は絶対娑婆(しゃば)の風には当たられないのだ。この病院に一生飼い殺しされて、病院の便所の汲み取りや庭掃除や患者の世話をさせてもらってここで死んでゆくんだよ」「そんな殺生なこと言いなさんな。僕はもう普通の人間とちっとも変わりませんのや。普通の人間が精神病者の中に混じっていてごらんなさい、一時間もいられませんで。大部屋だから十人も二十人も入っている。あっちの隅で泣いている人があるかと思ったら、こっちでは殴り合いの喧嘩をやっている。とてもおられません。気が狂った者でないと、こんなところには一日もおられません。この間も風呂へ入ったら何かおもしろいもの浮いているなと思ったら人糞や。風呂の中で糞を垂れているのですわ。そんな風呂へ入れません。もうこんどは絶対に注射しませんから出して下さい」と手を合わせて私を拝むのである。

 その時、私が教会名称の理をお許し頂いて一年経っていた。教祖八十年祭の三年前であった。私の頭に閃(ひらめ)いた。年祭によって、この人をたすけて頂こう。年祭しか、この人はたすからん。教祖七十年祭には、Kさんは「おやさとやかた」のふしんに一年も伏せ込んだが、たすけぞこなった。こんどの教祖八十年祭にたすけて頂かねば、私はこの人を一生たすけられんだろう。おたすけ人として、こんな不面目はない。

「お前そんなに出たいか」「一年も辛抱してきたんです。今日は先生が一年経ったから迎えに来て下さったと思っていたのです。どうぞ出して下さい」「お前俺の言うことはどんなことでも聞くか」「ここを出して下さるのだったらどんなことでも聞きます」「よし、お前がそんなに頼むのなら出してやるが、出してやっても一日もお前を休まさないよ。その日から働かせる、お前を根かぎり使うぞ。夜昼の区別なく働かせて、月給はお前にはやらない。俺がもらう。お前にはお金は一文も渡してやらない。みな俺がもらう。そして、働くのはお前だ。ただお前はタバコを吸うからタバコを現物で一日一箱だけ渡してやる。それでも承知か」「それで結構です。私はお金を持ったら悪いことしますから、お金は一銭もいりません。 承知します」「よしッ、その約束ができるのだったら、出してやろう。今日連れて帰ってやる」。 

 Kさんは喜んだ。早速病院の事務所で退院の手続きをして連れて帰った。姉妹たちは不満であった。一生入れておいてくれと頼んだのに、頼み甲斐のない先生だ、これからどうするのやろうと不安がっていた。

 私は早速、信者である仕事をしている仕事場へ行った。「Kをここで使ってくれ。月給はKには渡さないでわしがもらう」。その人は手を合わせて私を拝んだ。「会長さんは私の命の恩人ですから、どんなご無理でも聞きますが、こればかりは堪忍して下さい。Kさんだけはお断りします」。私が責任を持つから使ってやれ、と無理に押しつけた。Kさんはここで働いた。月給はみな私がもらった。その月給の中から、三千円だけは除外して中風のお父さんに小遣いとして渡し、残りは全部教祖八十年祭にお供えした。一円のお金も私は教会の用には使わなかった。Kさんを断えず監視していたが、おかしいと思う時もあった。モルヒネを注射しているなあと疑える時もあった。しかし、辛抱強く働かせた。人が汗水垂らして働いたその月給をこっそりもらうということは、たとえ我が身に使わなくても良い気持ちのするものではない。決して愉快なものではない。Kさんは前生から恩に恩を重ねて、恩で雪だるまのように膨らんでいるのである。私はKさんのおたすけに今まで十年余歳月を費やしてきたが、恩を報じることをしなかった。むしろ情けをかけて恩を重ねてきたように思う。恩が積もり積もって雪だるまのようになって身動きできなくて苦しんでいるのがKさんの姿である。Kさんも苦しんでいる。モルヒネの注射が好きで溺(おぼ)れているのでは決してない。いんねんに詰まって苦しみ泣きながら注射を打たねばならない。なんでわしはこんな注射をせねばならないのか、と嘆き苦しみ悶えながら注射を打っているのである。かわいそうにいんねんに詰まっていんねんに押しつぶされて喘(あえ)いでいる。それがKさんである。その諸悪の根源である恩を払ってやろう、これは心を鬼にせねばできることではない。夜業までして働いた月給を全部取り込むのだから、私のおたすけの道中でこんな嫌な思いをしたことは後にも先にもKさんだけであった。

 三年続いた。昭和四十年の秋も深かった。Kさんの八十年祭御奉公も三年続いたなあ、今年も間もなく暮れるが、明けたら教祖八十年祭やなあ、こんどはKさんも教祖八十年祭には胸を張っておぢば帰りできるなあ、と一人私は今昔の思いに耽(ふけ)っていた。偶然その時である。 お昼に教会へ来た。昼は仕事が忙しくて外へは出られないはずであるのに、教会へ来た。何事か出来たなと感じた。

 Kさんは私の前に正座した。Kさんはふだんはそんな人ではない。私の前でも足を投げ出したり、あぐらに座ったりする。その時は畏(かしこ)まって正座して深々と私に頭を下げた。「今日は先生に告白に来ました」と言うのである。私は狐につままれたようで何事かと思ったら、Kさんは言葉を続けた。「先生にお願いして、もう絶対モルヒネは打ちませんと約束して病院を出してもらったのに、私は時々注射を打っていました。注射を打たねば動けませんでした。ところが、最近私はあんなに先生に約束して出してもらったのに、俺ほど悪党はない、俺はこの世の中で一番の悪人だと思うようになりました。自分が先生を裏切った悪党だと気がついたら、もう注射は打てなくなりました。そこで今日は先生に何も彼も告白に来たのです。実は私にいつでも求めに応じて注射を打ってくれる医者が一人だけであります。お金がなかっても、この医者へ行けば黙って注射してくれます。この医者の名前は一生誰にも言わないつもりでした。それを今日は先生に告白しに来たのです。これを言ったら、私はもう一生注射を打てません。きっと先生は私が帰った後でこの医者へ電話なさるでしょう。これがわかったら、この医者はもう注射してくれません。だから私はもう一生涯注射できません。医者の名前を申しますから控えて下さい」。 電話番号まで言った。Kさんは泣いていた。告白し終わってKさんは帰って行った。私はすぐ電話した。電話の向こうでその医者が平身低頭している様子が窺(うかが)えた。「今すぐ行って先生にお詫びを申し上げたいのですが、患者が待ってますのでできません。Kさんとは昔馴染みの遊び仲間です。共に天満で育ったのです。 戦災に焼かれて、今ここで開業しているのです。初めKさんに一本打ったのが病みつきになって、悪いと知りながら、昔馴染(なじ)みの仲でついつい打ってしまいました。もうこれから打ちません。誓いますから堪忍(かんにん)して下さい。私にも妻も子供もあります。先生がこのことを公になさると、明日からみんな路頭に迷わねばなりません。たすけると思って公にしないで下さい。もうこれからは絶対打ちません。Kさんが来たら先生の所へ電話することを誓いますから、どうぞ堪忍して下さい」。私はモルヒネを注射しないことを約束するなら許してあげると言った。 

 Kさんの注射はこれで止まった。Kさんはもう仕事を止めて布教することになった。注射を止めたKさんは立派な布教師になった。信者さんもみな感心した。中風のお父さんも喜んだ。姉妹も喜んで下さった。早く死んでくれたら、と祈られたKさんは姉妹たちの相談相手に変わった。それから後、中風のお父さんが死んだ。Kさんの正常に戻った姿を見て喜んで死んだ。お葬式には東京の弟たちも帰ってきてKさんの姿を見てその変わり様にびっくりした。Kさんには姉弟たちがたくさんいて、弟が二人いた。二人共、Kさんと一緒に大阪で暮らしていたら金を盗られて結婚もできないと、東京へ逃げて行った。妹二人も同様にして横浜へ逃げて行った。その人たちがKさんの変わった姿を見て、神様のお蔭ですとお葬式の後で揃って教会に御礼に来られた。Kさんは教祖八十年祭にすっかり御守護頂かれたのである。 

 Kさんには兄が一人あった。その兄もモルヒネの中毒患者であった。兄は薬が切れて死んだのである。兄の死骸の前でKさんはモルヒネを注射していたのである。だからKさんもモルヒネで死ぬ運命であったのだ。

 布教所の間は、Kさんをたすけることができなかったが、名称の理を戴いてKさんをたすけさせて頂いた。

 Kさんの語るところによると、昔Kさんが徴兵検査が終わった翌年に、モルヒネを覚えて中毒にかかった、というから、彼の二十一歳の時である。以来ずっと注射を打ち続けて、戦争に出征した時も軍医を騙して注射を打っていたという。昭和四十年まで、実に三十七年間モルヒネの中毒患者であった。私がにをいがけしてから十五年目、やっとたすけられたのである。思えば長い年月であった。今は私の教会の責任役員であり、布教所長であり、教会の信者の人々から先生々々と尊称され、教会の「神殿おたすけ掛」として今も布教に熱心に動き回っている。教祖百年祭には、Kさんの布教所が教会になり、その奉告祭に出席できることが、私の夢である。

 教会名称の理に、神様がお働き下さった一つの例を挙げたが、数えたら際限ないほど、たくさんの名称の理にお働き下された神様の御守護を私は体験してきた。

 その反対に、教会名称の理を軽(かろ)んじたり、名称の理に逆らったり、心ならずも名称の理を疎(うと)んじてその結果、神様の御守護を失った例も私はたくさん経験しているのである。教会名称の理ほど鮮やかな神様のお働き下さる理は外にないと私は信じている。神様が、ようこそ私ごとき未熟者にこの尊い名称の理をお授け下さったものと、日夜感謝感激で暮らしている。と同時にこの尊い名称の理が子供や孫や更に末代にわたって、ますます発展、光り耀(かがや)く光芒(こうぼう)を放つよう教会長、それを取り巻く信者は一手一つに協力して、その成果を教祖に御照覧頂き御満足戴けるよう努力することを、切に私は期待している。

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