『一日一回おさづけ』芝太七著_12)教会の設立

 医者から土地を買って、土地の御守護が頂けた。土地が手に入ったら家を建てるのが順序である。さあ家を建てようということになった。また主だった信者さんに集まってもらった。「これからあの土地の上に家を建てようと思うが、今のところ大工の信者さんがない。やはり天理教の神様をお祀りする家を建てるのだから、天理教を信心している人でないといかん。天理教も天理教の神様も知らんと言う人には建ててもらう理がない、と言っても今のところ大工の信者さんがいない。家を建てねばならない。そしたら急に大工さんの信者さんを作らにゃならん。作ったら間に合う。そこで皆様と相談だが、皆様の知っている大工さんで病気で寝ているとか、病気に罹って寝たとかの人があったら、私がおたすけするから、そんな人を探そうじゃないか。みんな心掛けていたら、きっと見つかるに相違ないと思うから、皆様心掛けてほしい」そう言ってみんなに頼んだ。しばらく経ってから、ある婦人の信者さんが、「先生、大工さん病気になりました」と教えてくれた。よし来た、というので、その婦人に案内してもらって京都の山城にある大工さんの家へ行った。入ったところが六畳敷ぐらいの部屋になっていて、そこで男の人ばかり五、六人が車座になって相談しているみたいであった。何の相談しているのかというと、弟の大工が病気になった。町の医者に診てもらったが、一週間経ってもちっともよくならない。腹は痛いし熱は下がらない。町の医者も、「わしの手には負えんようになった。京大の附属病院へ行って診てもらってくれ。わしが添書を書いたるから」ということになった。それで、昨日添書をもらって京大病院へ行った。診察の結果「腎臓が腐っている。だから熱が高いのである。それに石が溜(たま)っている、だから痛いのである。腎臓は二つあるから、手術して一つを取ってやろう、腐っている方を取ってやったら熱も下がるし、痛みもなくなる。だから手術してやるが、今は満床で入れないから二、三日の間、家で待っていなさい」ということで帰ってきたという。そして今日、大工の兄弟と嫁の兄弟、男ばかりが集まって相談している。手術をしたらすぐには働けない。半年ぐらいは療養せねばならん。手術料も要る。今のように保険のないころだからお金が要る。それに子供が小さい、男一人と女三人いた。今は皆よふぼくになっているが、その当時は小さくてその子供らをどうするか、兄弟たちが一人ずつ引き取ってあげて嫁が働くか、どうしたらよいか、そんな相談をしているという。「あんたは見かけん人やが、どこの人や」と言う。「私は天理教や。人だすけに歩いている。この人に大工が病気になったと教えてもらったから、たすけてやろうと思ってきたのである」と言ったら、「そんならたすけてくれ」ということになった。隣の部屋で大工が寝ていた。痛いからじっとしていられない。苦しんでいる枕許ヘ座って言った。「わしは天理教で人だすけに歩いている。大工が病気になったと聞いたので、 たすけてやろうと思って今日来た。わしの言う事を聞くのならたすけてやるが、聞くか」と言った。大工はどんな事や、と言うから、二つある、一つはこの痛みが取れて熱が下がったらすぐ別席を運ぶか。別席と言うても分からんので説明してあげた。聞くだけならおやすいご用だ、行くと言う。間違いなく行くと誓った。もう一つは、「お前は大工だろう。わしは大阪で天理教の神様をお祀りする家を建てようと思っている。大阪へ来てその家を建てるか」。 大工の言うのに「わしは腹を切るのが死ぬより辛い。腹を切らないで治してくれるのなら、大工でできることやったら、どんなことでもする。腹を切らないで治してほしい」 「ほんとうに家を建てるか」「腹を切らないで治してくれたら、大阪へ行って家を建てる。約束する」「よしっ神様にたすけてもらったろう。 一週間も痛かったのだから急にと言う訳にはゆかん。三日のお願いしてやるから、三日だけ辛抱しなさい」。

 そして三日のお願いしてあげた。三日目の朝になって、熱も下がり痛みもとれた。早速別席も運んだ。病院から入院しなさい、と電話があったが、とうとう入院せずに済んだ。大工さん喜んだ。涙を流して喜んだ。おたすけ人で何がうれしいかというと、たすかって涙を流して喜んでくれる姿を見せて頂くことだ。おたすけ人の喜びはこれに尽きる。おたすけしてお金を頂いて有難いのじゃない。物を頂いてうれしいのじゃない。泣いて喜んで頂けるような喜びこそ、最高の喜びだ。これがたすけ一条の喜びであると思う。おたすけ人は常に泣いて喜んで頂けるような喜びを味わえるから、感激の連続である。

 これでやっと大工の信者さんが出来た。いよいよ家を建てることになった。昭和三十五年年頭から大工さんは工事を始めることになった。信者さんがひのきしんに来てくれた。このころの信者さんは人数が少なかった。少ないなりにもよくひのきしんに来て下さった。信者さんとは有難いなあと思った。信者さんはひのきしんに丹精して成人して下さった。大工さんはおたすけして信者さんになってもらっていたが、たたみ屋さんもおたすけして信者さんになってもらっていた。屋根屋さんもおたすけした。壁屋さんもおたすけして信者さんになってもらっていた。おたすけは本当に便利なものである。信者さんを増そうと思ったらおたすけをたくさんすることである。「さづけは道の路銀」と教えて下さるように、おさづけは神一条の道すがらの唯一の路銀になる。これさえあったらなんにも不自由はない。おさづけさえ精勤に取り次がせて頂いていたら、神様は必要なものはみんな揃えて下さる。何も心配はない。

 大工さんは約束の通り立派な家を建ててくれた。十一月末に竣工した。新築の檜(ひのき)の香の漂う神床に神様をお祀りさせて頂いた。さあ、いよいよこれからこの新しい家を根拠におたすけ活動を始めようと私も精気に充ち満ちていた。

 昭和三十六年四月二十六日、はるのひ分教会設立のお許しを頂いた。単独布教師が教会になった。鎮座祭は昭和三十七年三月五日、奉告祭は翌三月六日と決まった。

 二代真柱様がお入り込みになり、鎮座祭を執り行って下さった。その最中である。昭和三十七年三月五日午後八時過ぎ、もう九時近くなっていたかもしれない、御本部から電話があって、まさ奥様(現真柱様奥様)が男児をご出産なされたとのことである。祭典中には申し兼ねたので、鎮座祭終了後申し上げたらたいへんお慶びになった。「わしは男の子を一人しか作らなかったのに息子は偉いやつや。二人も作りよった。偉いやつや」と大層なお慶びであった。私はその時思った。この教会は運の良い教会やなあ、神様のお鎮まり頂いている最中に真柱家に男児出産という、またとない慶事が出来(しゅったい)するなんて、得難い慶びをお見せ頂く。幸運な教会やなあ、と。鎮座祭が終わって客間でお休み頂いていた時、床の間の軸物をご覧になっていた。その軸物は初代真柱様のご揮毫である。「月日」と上に書いて、下に「火水風」と雄渾(ゆうこん)な筆致で淋潤(りんり)と書いてある。そして「真之亮」と落款(らっかん)が押してある。それを真柱様はしばらく時間をかけてご覧になっていた。真柱様のお父さんのだから懐かしくてご覧になっているのだなあと思っていた。

 ところが、翌朝奉告祭に真柱様をお宅へお迎えに上がってお玄関をご出発の時、お見送りに出ておられた善司様に、「善亮(ぜんすけ)ちゃんによろしく言うといてや」とお言葉を残してご出発なさった。その時私は、昨夜鎮座祭が終わって客間でご休養の時、男児ご出産のご報告を申し上げた時、床の間の初代真柱様の軸の「真之亮」の印をしばらくの間凝視しておられたが、あの時もう、「亮」の字をご命名なさっておられたのだなと推察させて頂いた。

 奉告祭には、昨夜の鎮座祭に引き続いてお疲れの中にも拘(かかわ)らずご臨席を賜わった。終始、御機嫌うるわしく私たちをお導き下さった。殊にもお言葉の中で、「はるのひ」の名のように陽気で明るい教会になるよう努めよ、とのお言葉は肝に銘じてその実現に丹精して親心に報(こた)えねばと誓った。奉告祭も無事滞りなくつとめ終えさせて頂いたのは、何にもまして有難いことだった。

 奉告祭も終わってお給仕をさせて頂いていると、ひとこと、「真柱には停年がないのやな」とポツンとおっしゃった。誰に言うともなく、前後の脈絡もなく、勿論御前に侍している私におっしゃる訳ではなく、思い浮かぶままにおっしゃったのだろうと思う。余程お疲れであったのだろう、と拝察させて頂いた。その激務の程が偲ばれて、親にご心配をかけてはならない、親孝行はできなくてもせめてご心配をかけるような教会を持ってはならない。ご心配をかけないためには内容の充実した教会にしなければならない。子々孫々に伝えて、これを実行せねばならないと堅く誓ったことだった。

 奉告祭も滞りなくつとめさせて頂いた。真柱様にもご満足して頂けた。八年前、別府航路の黄金丸の船上でカバンを拝戴した。その時、真柱様をお迎えできるようになれるとは夢にも思わなかった。真柱様のあたたかい親心になんとかお報えさせて頂かねばと思い、それには、たすけ一条に精を出すより外にはない。頂いたカバンに御供(ごく)さんとパンフレットをつめておたすけに歩いた。笑われた日もあった。謗(そし)られた時もあった。そうかと思うと、泣いて喜んでもらえたこともあった。雨の日も風の日も、照る日も雪の日もカバンを持って歩いた。なんとかして御恩返しをしなければと、夢中になって歩いてきた。そして今、その道の親を目の前にお迎えして、お接待させて頂いている。夢ではないかと我が身を疑った。あのカバンを頂いた時、今日の日を誰が予知できただろう。道の子として、これ以上の光栄があるだろうか。私ほど幸せ者はないと、心からその喜びを噛(か)み味わったことだった。

 昭和二十六年五月一日、一本の古い蝙蝠傘(こうもりがさ)を提げて、戦災で物心ともに荒廃した大阪へおたすけに出てきてから十一年経った。金もなかった。物もなかった。権力もなかった。地位もなかった。頼れる物は何もなかった。あったのはおさづけだけである。頼れたものは、目に見えない神様だけであった。目に見えない神様に頼って、教祖から戴いたおさづけを取り次がせて頂いて、ひたむきにおたすけに励んできた。それが今日の姿になった。

 大阪という所は人の集まる都会である。日本全国から、日本だけではなく外国からも集まってくる大都会である。何のために集まってくるか、一攫(いっかく)千金を夢見て集まってくるのである。大阪で一旗揚げよう、大阪で成功しよう、大阪で盛りかえそうと野望に充ちて集まってくるのである。そんな人が、みんながみんな悉(ことごと)く、十一年目にして土地を買い家を建てられるかというと、なかなか容易なことではない。一生かかっても希望を叶えられない人もあるかもしれない。しかも、その方々はほとんどといっても過言ではないほど、我が身我が家のために身を粉にして働いておられるのである。そしてなお、かくの如しである。反対に、私は我が身、我が家を忘れて、人さんたすかって頂きたい、人さん幸せになって下さるように、人さん病気たすかって下さるようにと、人のことを思い念じておたすけに歩かせて頂いてきた。 

しんぢつにたすけ一ぢょの心なら 

なにゆハいでもしかとうけとる  三38

 この世の中で一番頼りになるもの、それは目に見えない天の理であり、神様である。この世の中で一番我が身我が家を守るもの、それは人をたすけることであり、人に真実を捧げつくすことである。

 かくて、大阪へ来て十一年目、私は神様の絶大なる御守護に浴したのである。

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