私が布教に出て間もないころから、教祖七十年祭の活動が始まった。毎月二十六日にはおぢばへ帰らせて頂くが、祭典講話には必ず教祖七十年祭のお話があった。それが終わったら、 天理教館のお話を聞かせて頂いた。その講演の中にも教祖七十年祭のお話が必ず入っていた。一週間に一回送ってくる天理時報にも必ずといっていいほど、教祖七十年祭のことが記載されていた。お道の中は、西向いても東向いても、北も南も、そして朝も晩も四六時中、年祭年祭で持ちきりであった。私が天理教信者になって教祖の年祭に遭(あ)わせて頂くのは七十年祭が初めてであった。それまで年祭は知らなかった。私はこんなに年祭々々とやかましく言われるのは、私たちの親である教祖がたすけ一条の長の道中、今日一日と言うて心安める日もなく艱難(かんなん)苦労の五十年の道すがらをお通り下されて七十年になる。だからその親の御苦労を偲んで賑やかに盛大につとめさせて頂いて、親にお喜び頂くのが年祭の意義なんだなあと、それくらいにしか理解できなかった。経験のない、成人の鈍い者はなさけないもので、それぐらいにしか年祭の意義を解釈できなかったが、それはそれなりに一生懸命であった。親の年祭なのだから、私も信者の一員として賑やかにつとめさせて頂くには一人でも多くおぢばへつれて帰らせて頂かねばならない。一人でも多くにをいがけせねばならない。そう思って、 あっちこっちと駆けずり回ったことだった。昭和二十六、二十七、二十八年と苦労させて頂いたお陰で、昭和二十九、三十年には、あちらこちらでにをいがかかり、信者さんもボチボチと出来ていた。その方々ににをいがけして下さるよう頼み歩いた。町会の人々、婦人会の人々、学校のPTAだとかというように、皆様を督励(とくれい)して回り、頼みに歩いた。そしてそのおかげで、教祖七十年祭の期間中に大阪からバス二台、山城の田舎からバス二台、都合四台を募っておぢば帰りさせて頂いた。
本部員桝井孝四郎先生が、「芝はん、あんた偉いなあ、期間中にバス四台も募って、おぢば帰りしたのやてなあ。教会の看板を掲げていても、バス一台つくりかねている所もあるのに、あんたは単独布教師やのに四台も出来て、偉いなあ」と年祭が終わってから褒めて下さった。御恩報じの面でも精いっぱいつとめさせて頂いた。年祭が終わったら、やれやれと思った。
年祭の終わった後、年祭中働いて下さった方、おぢば帰りの募集に丹精して下さった方に労を犒(ねぎら)うために一席を設けた。その時その集まった人たちの中から、「結構な神様、なんでもたすけて下さるこの神様を、このあばら屋の押し入れに祀っておいては勿体ない。もっと人間らしい家へ祀りましょう」という意見が出た。
これは結構だと思った。今までは求めることばっかりの信者さんであった。ああしてくれ、 こうしてくれ、くれくればっかりの信者さんであった。求めることばかりの信者さんはすぐ不足する人である。ああしてほしい、たすけてほしいと求めてばかりいたら、その思いが叶えられなくなると不足になる。求めている信者さんは最後には不足になる。抱いてくれ、負うてくれ、担いでくれ、その次には何もしてやれない、行き詰まりである。行き詰まりは不足である。今までの信者さんはこの域から一歩も出られなかった。ところが、教祖七十年祭の期間中、新しい信者や未信者の団参の世話をしてもらった。案内係、弁当係、バス係、休憩場係等々、みんな係についてもらって腕章巻いて人の世話をしてもらった。これが成人の第一歩であった。今までは私に求めることばかりであった。ところが、人の世話をするようになって、喜ばせることを身をもって体験してもらった。これが成人への第一歩であった。 だから、信仰は人の世話をしなければ成人しない。人に世話してもらっている間は絶対に成人しない。今まで拝んでいても何も感じなかったその人たちが、押し入れへ祀ってあるのは勿体ないと感じるようになった。成人したのである。
恰(あたか)もその時、私らの布教所は老朽して建て替えのため一時立退きという事情が立て合うた。この合図立合いを好機として、この際家を買おうということにみんなの意見が定まった。これはたいへん結構なことだと思った。みんなは手分けして、古家探しになった。ところが、大阪は戦災に遭っていて、そうでなくても家が払底(ふってい)している。みんな探しあぐねてこんなに古い家がないのなら土地を買って杉の柱でもいいから新しい柱を建てて、神様をお祀りするに相応しい新築の家を建てようということになった。こんどは土地探しである。
これもなかなか見つからない。あるようではあるが、適当な場所が見つからない。川ふちの不便な所にあったり、袋小路になっていたりで、思い通りにはならない。ある日、信者さんが私を誘いに来た。「これから学園前へ行こう」と言うのである。「学園前へ何のために行くのや」と言うと、土地を探しに行こうと言うのである。その当時、まだ学園前は、帝塚山学園が山の中に一つぽつんと建ってあるだけで、殆どは山地であった。 それも雑木の茂生した裸山同然の僻地(へきち)であった。その信者さんが、あの学園前で神様をお祀りする土地を探しに行こうと言うのである。「なんであんな所へ行くのか」と聞くと、「土地が安い、そしてお金の割合に広い土地が買える。だからあそこへ土地探しに行こう」と言う。私は断った。先生はなんであんな見晴らしの良い所を断るのやと言うから、「私は山の中へ入って兎(うさぎ)や狸(たぬき)をたすけるのやない、人間たすけるために大阪へ来たのだ。今いる所も大阪市内だ。けれどもここよりももっと大阪の中心の北区へ行きたい、人間の入り混んでぐちゃぐちゃしている所へ行きたい」「そんな無茶なことを言いなさんな。北区は地価が高い、それに土地がない、我々の手に入る所じゃない。それは止めときなはれ」と言う。私はその人に、「昔からこう言うことがある『寝て一畳、起きて半畳、天下取っても二合半』と。人間寝る時は畳一畳あったら結構寝られるのや。六畳の間で寝ても一枚の外は余分なものや。 要るのは一枚だけ、起きたら半畳あったら座れる。半畳も要らないかもしれない。半畳だけあったら、十分用は足せる。他はいらん。天下取って内閣総理大臣になったので、今日から米一石を食うと言う訳にはゆかんのや。総理大臣になっても一日は米二合半あったら、充分腹は膨らむ。年とったら二合半も要らんわ。つまり寝て一畳、起きて半畳、天下取っても二合半、ということは人間の最低要件や。それ以外のものは要らんということや。教祖はなあ、今の教会本部の始まりの元治元年つとめ場所をお建てになる時に、始まりは一坪や、建て増しは心次第や、とおっしゃったことがある。始まりは一坪さえあったらええのや。一坪あったら畳二枚敷ける、僕は一枚に神様を祀るのや。後一枚の上で寝るのや。一坪の土地を探すのや」と頑張った。みんなの反対を押し切って、とうとう北区を探すことになった。 これもなかなかなかった。
ある日、土地を探して帰り途、空地の所を通った。狭いが整地して角屋敷ではあるし、小学校の前である。環境も良いし、土地柄が良い、この土地欲しいなあと思って、隣の家の人に聞いたら、わしが管理しているという。地主は誰かと聞いたら、地主を聞いてどうすると言う。買おうと思うていると言うたら、その管理していると言う爺さんが「ヘヘヘ……」と馬の鳴き声のような笑い声を出して、「あんた止めときなはれ、地主を聞くだけ野暮ですわ、この地主は金持の医者でな、この土地を何人買いに行ったか分からん。けど誰も買った人はないのや。医者はめったに売らんのや、行くだけ野暮や。止めとき」と一時は話に乗ってくれなかったが、必死に頼んだので医者の住所と姓名を教えてくれた。翌日教えてもらった所ヘ医者を訪ねて行った。産婦人科の病院であった。本宅が別になっていた。その当時はにをいがけ用の大きな名刺を持っていた。「天理教布教師」と肩書を書いてあったので、名刺を女中さんに渡した。断られるだろうと思っていたら、女中さんが三階の応接間へ案内してくれた。案に相違して丁重に扱ってくれるので、これは幸先良いわいと思った。暫く待っていたら、でっぷり太った医者が入って来た。ソファに腰掛けるなり何の用で来たかと訊ねたので、土地のことを言って、あの土地を譲って頂きたいと申し出た。すると医者は今までの丁重なもてなしを一擲(いってき)して、「なんだお前は土地買いかい」と出た。「あの土地はなあ、俺の親爺の形見にもらった土地なんだ。随分たくさんの人が買いに来るが、俺はめったに売らない。お前はあの土地買うて何の商売する積りや」「私は商売人と違います。私は天理教です。天理教の布教師です。あの土地を買って天理教の神様をお祀りしますねん」。 医者はびっくりして、「へえー、天理教か」と一声発して、ゴロンとソファの上に横に転んでしまった。 やはり、駄目だったなあ、もう帰ろうと思うが、起き上がってくれないと帰れない。早く起き上がってくれたらええのになあと思っていると、医者はおもむろに頭をもたげてきて、「売ったるわ」と叫んだ。
私はびっくりした。親の形見で今まで何人買いに来ても、売らなかったと言っているのだから、私ら天理教には売るはずがないと思っていた。それが、案に相違して、「売ってやる」と言うのだから、驚きであった。とにかく有難いことなので、日を改めて契約に来る事を約束して帰ってきた。信者さんたちもみんな喜んでくれた。あそこなら、天理教の神様をお祀りするのに申し分ない所である。それに学校の前ではあるし、その附近一帯には天理教の教会も布教所もないし、お寺もない。宗教には全くの処女地である。交通は便利だし、こんな結構はないと喜んでくれた。みんなもぜひあの土地を買おうということになった。そこで先立つ物はお金だから、お金の相談になった。その当時は信者さんがみんな集まってもらっても、数が知れている。車座になって二十人近い人数がお金の相談になった。私が司会の立場で、あなたはお金をどうするか、と聞くと「ハイ」と返事は良いが、首を垂れてしまって後は絶句、その次の人に「あなたは」と言うと「ハイ」と首を垂れる。次も次もみんな同じである。たすけて頂いた神様の御恩は身にしみて有難い。それは良くわかっているが、無い袖は振られない。御恩報じの思いは十分わかり過ぎるほどあるのであるが、無いものはとうにもならない。
その当時の信者さんは殆どといっていいほど、貧乏であった。経済的に恵まれていなかった。今ごろはみな豊かになって栄えておられるが、その当時は私と同様、お気の毒に思うほどであった。信者さんというのはその所属する教会と運命を共にするものだということが良くわかった。その教会につくし運ぶ中に、神様の御守護を頂いてゆく。教会も栄え、信者も御守護頂いてゆく。それが証拠に、不幸にして教会と縁が遠のいて行く信者はどうしても御守護から取り残されてしまう。信者はつくし運ぶお陰で教会と共に栄えるものだと思う。それがよくわかったが、当時の信者さんは本当に貧乏で、たすけて頂いた有難さは十分わかっているのだが、無いものはどうしようもなかった。みんな頭を上げない。まるで相談にならないのである。困ったなあと思った。あの土地は欲しいし、日は迫ってくるし、お金はないし、どうしようかなあ、思案に暮れていた。
その時である。私が柳井徳次郎先生に、「宵越しのおさづけを使いなさんな」と言われて、最初におさづけさせて頂いたその奥さん、医者もたすからんといっていたのがたすかって、おさづけはさしてあげるが信心はしないといったその奥さんが、「ほんの僅かですがこれを土地代に使って下さい」と八万円を出して下さった。有難かった。その当時の八万円は値打があった。天にも昇る思いがした。これで約束の日に契約に行ける。私はこの奥さんにお金を出してもらうためにおさづけに行ったのではない。またたすかって頂きたい真実一杯の思いで行ったのでもない。ただ、柳井徳次郎先生に宵越しのさづけを使わないようと注意されたから、それを実行するために行っただけであった。この奥様にお金を出してもらうなど夢にも思わなかった。けれども、神様はご存じだった。お前は十年先になったらお金で困る日がくるのだ。だから今この婦人におさづけを取り次いでおけとおっしゃっていたのだろう。 けれども、神ならぬ身の私はそんなこと知る由もなかった。おさづけを取り次ぎに行ったのが昭和二十二年十一月二十三日、八万円のお金を頂いたのが昭和三十一年三月だったから、十年目であった。神様の不思議な摂理だった。御守護であった。
信者の皆さんが醵金(きょきん)して十万円になった。それを持って、約束の日に医者へ行った。同じ応接間で医者と対して、私は二代真柱様から頂戴したカバンの中からその十万円を出して、「契約しましょう」と申し出た。二、三の信者さんも同席していた。と医者はその十万円を片手に持って「これなんやねん」と言った。私はおずおずと、「お金です」と返事した。その当時はまだ一万円札はなかった。千円札で十万円の束であった。「わかったある。この十万円は何の金や」「土地代です。それで契約してほしいのです。」 医者はすかさず、「残りの金はどうなるのか」と訊きかえした。私は、「年末まで待って頂きたいのです」と返事した。年末になってもお金の入ってくる当ても何もなかった。ただそれが待って頂ける最長の期間だと思っただけである。そうすると、医者はその金をおもむろにテーブルの上に置いて、改めて腹を抱えて笑った。「わしはこの年になるが、こんな取引したのは初めてである。今百万円持ってきて残りを待ってくれというのなら話もわかる。今十万円しか持ってこないで年末まで待てとは何と言うことだ。今日を何日やと思うているねん。三月の二十五日やで。 これから先がどんなに長いか、けれども、天理教やったら待ってやる。もし年末になってまだよう払わんようなことやったら、年明けて残りの金に日歩二銭の利息で待ってやるわ」と 一気に言ってのけた。
今思うと、本当に汗顔の至りである。あんな非常識なことをよく言ったなと思う。今ごろはだんだん世間の常識にも揉まれて、不動産の商取引はマージンが一ヵ月ぐらいのことは分かってきたが、その当時はたすけ一条一点張りでそんなことが分からない。分からないから言えたことだったと思う。その土地代は百二十七万円であった、現今の百万円と言えば値打がないが、当時の百万は値打があった。単独布教師の私には雲の上のお金であった。年末になっても絶対に払えない。自信があったのである。どうせ裸で出発したのだから裸になったらええのや、契約期限が切れて契約不履行である。あの十万円はもらっておくと言われて取り上げられても元々や。成り行き委せやという気持ちであった。ところが、この医者は不履行にはしないと言うのである。払えない残金に日歩二銭の利息で待ってやる、当時日歩二銭 は銀行利息であった。天理教だったらと、但し書きをつけて温情を示してくれた。私は後で静かに考えた時、なるほど神様が働いて下さっているのだなあ、と神恩の有難さを思った。 残金は八月に完納の御守護を頂いて医者を喜ばせた。
土地が手に入ったので、にをいがけのつもりで看板を掲げた。土地は小さいのに看板だけは物凄(すご)くでかいのにした。にをいがけのためにである。すると買手が来た。応接に困るほど買手が来た。信者の不動産屋を通じてあの土地を売ってくれと言うのである。私の所はすぐ隣接して天満の卸売市場がある。大きな商売人がたくさんおられる。その方々は店は狭いので、本宅は千里山とか国鉄沿線の茨木や高槻、阪急線の芦屋あたりにあって、そこから家族も店員も通っておられる。すぐ横には天神橋筋の商店街があって、やはり大きな商人たちが遠方から通って来る。目と鼻の先のこの土地が欲しい、この土地に本宅を建て家族も店員も住むとたいへん便利である。この土地が欲しくてたまらない。買いに行ったが、売ってもらえなかった。それを天理教が買った。
私はその時思った。この世界は神様の御守護の世界である。一切は神様が支配して下さる。神様のお許しのないことには人間力ではどうにもならない、神様のお許しさえあったら人間思案を越えてどんなことでもできる。私は自分の身を守ろうとはしなかったが、人様たすかって頂けるならどんな事でも厭わず東奔西走していた。人の幸せを念じて我が身を守ることを忘れて、毎日下駄を草履のようにすり減らしておたすけに歩いていた。すると神様は、お前だったらこの土地を使っても良い、お前には使わせてあげるというお許しが出た。他に何人も何十人も使いたがっている人があっても、金儲けもしてないし、もちろん一円の蓄えもない私に土地の使用をお許し下さった。大きな商売人は毎日お金儲けに血眼(ちまなこ)になって、朝から晩まで鵜(う)の目鷹(たか)の目、お金の蓄えもたっぷりある。なんでもできるように見えている。けれども、神様のお許しだけなかった。だから使わせてもらえなかった。この世界一切は神様のお許しの世界であるということが良くわかった。神様のお許しを頂く理づくりをすることが何よりも大切である。
土地代を支払い、土地が私たち信者のものになったのは、昭和三十一年八月一日であった。 七十年祭の終わった翌月、すなわち三月二十五日に土地買収の契約が出来て、支払いの完了したのが八月一日。つまり教祖七十年祭直後である。教祖七十年祭の丹精のご褒美であった。もちろん大阪市内の真ん中で土地が買えるような教勢ではなかったのに、七十年祭にバス四台を出して団参するほど一生懸命につとめさせて頂いたご褒美であった。その時に初めて教祖の年祭はたすけて下さる旬である』ということがわかった。体験してみて初めてわかったのである。なるほどこのことか、御本部から、口を開いたら年祭々々、新聞でも教話でも講演でも年祭々々と、これでもかこれでもかと言わんばかりに年祭を強調して下さるのは、さあたすけてあげよう、さあたすかりなさい、さあ御守護頂かせてあげよう、さあ幸せにしてあげよう、と呼びかけて下さっている天の声だということが初めてわかった。年祭こそたすけて頂ける旬であると理解できた。神様はいつもたすけて下さっている。日夜神様の御守護はある。けれどもその中に、特に神様のお働き下さる旬があるはずある。
その旬が教祖の年祭だと思う。それは年祭の元始まりを考えたらよくわかる。年祭の元始まりは、明治二十年陰暦正月二十六日の事情である。これが天理教最大の事情であった。当時の先生方は恐らく信じられなかったと思う。教祖はかねがね百十五歳定命である、とお教え下さっていた。神様のおっしゃることに千に一つも間違いはない。先生方は信じきっていた。それが突如、二十五年も寿命を縮めて御身をお隠しになった。信じられない出来事であった。どうしたらいいのか、見当もつかなかった。今まで凭れ切っていた教祖が、急にお姿をお隠しになったのだから。どうしたらいいのか路頭に迷った。その結果、内蔵の二階に集まって飯降伊蔵先生のお口を通して神意を伺われた。そしたら神様のお言葉に、
「神が扉を開いて出たから、子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで、しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ」
(明治二十年二月十八日陰暦正月二十六日)
とあった。
子供可愛いから親の命を二十五年先の命を縮めた。姿を隠してこれからたすけてやるのや、とおっしゃった。明治二十年陰暦正月二十六日の大節は、子供可愛いから親の命を二十五年縮めてたすけて下さるその元一日となったのである。たすけてやりたい親心の表れが明治二十年の大節であった。
二十五年も子供可愛い思召の上から定命を縮めて下さった。これが年祭の始まりである。 一年経って一年祭。五年経って五年祭。九十年経って九十年祭。やがて百年経っから百年祭。その元一日は明治二十年陰暦正月二十六日に帰する。年祭は親神様が人間をたすけてやりたい親心の充ち溢れた旬である。だから年祭にはきっとたすけて頂けるのである。たすかる旬だからたすけて頂けるのである。けれども、なんぼ旬でも種を蒔(ま)いておかねば稔(みの)りは得られない。じっとしていては何も穫(と)れない。秋にお米をたくさん収穫したいと思うなら、八十八夜の種蒔きの旬に籾種(もみだね)を蒔いておかねばならん。夏の土用の盛夏にスイカを収穫するためには、春先まだ寒さの残っている時にスイカの種を蒔いておかねばならない。旬々に収穫の喜びを得るためには旬に種を蒔くことが絶対の要件である。旬ほど大切で、尊いものはない。けれども旬を外したらなんにもならない。たすけて頂くためには年祭の旬に種を蒔かねばならん。年祭の旬を外して種を蒔いても、生えてこないどころか邪魔になる。 私のような頼りない未熟者の単独布教師でも、大阪のど真ん中で土地が買えたのは、教祖七十年祭に精いっぱい運ばせて頂き、バス四台の人数を集めておぢば帰りさせて頂いたのを、親神様が種蒔きとしてお受け取り下さり、旬に芽生える御守護をお恵み下さったと信じる。 この時に、年祭はたすけて頂く旬、御守護を頂く旬ということが良くわかった。体験させて頂いた。
年祭は御守護を頂く旬と言うことが良くわかったので、教祖八十年祭は一生懸命であった。たすけて頂くためには、年祭の旬に種を蒔かねばたすかる芽は出てこない。信者さんにも皆さんにも説いて回った。みんな真剣であった。
教祖八十年祭は教会になって四年半経って迎えさせて頂いた。私もまだ若かったので活躍ができた。つくし運び、おたすけに夢中になっていた時である。みんな我が身を顧みずつとめさして頂いた。だから教祖八十年祭の時にはたくさんの御守護が頂けた。バスの団参は教祖七十年祭の二倍の八台でおぢば帰りできた。初席者は三五六人の御守護であった。教祖八十年祭期間中に三五六人の初席者が出来て、別席場の三部屋をはるのひの初席者で独占できた。うれしかった。あの時の感激はいまだに忘れられない。信者さんもたくさんたすかられ、御守護頂かれた。教会も御守護頂いた。教会は狭い狭いと言うていたのが、隣接地を買収できて参拝場を広めることもできたし、客間や住み込みの部屋もつくれた。大阪市内の混み合った所で、隣接地を買うなど、殆ど不可能に近いことなのである。それが御守護頂けたのは、 教祖八十年祭の丹精のお陰であった。”年祭はたすけて頂く旬” ということが、いよいよ信者のみなさまにも徹底してきたので、教祖九十年祭は更に拍車をかけて丹精させて頂いた。
教祖九十年祭の後では数々の御守護を頂いた。信者さん方も皆様御守護頂いて下さった。教会の上にも御守護頂いた。後継者がはっきり定まったことは何よりも有難い御守護であった。詰所の土地をお与え頂いたことも教祖年祭の御守護の一つであった。かねがね詰所が欲しい、修養科生や信者がゆっくり憩える、そして修練に励める場所がほしいと思いつめてきた。しかし、単立の教会では詰所を建てる力はないし、第一土地がない。土地でもあれば建物は建てられるのであるが土地がない。天理の土地はだんだん地価が上がってゆくし私たち単立の教会では逆立ちしても及ばない。それに遠方不便な所では困るしと、常々詰所のことで頭を悩ませていた。ところが九十年祭が終わった直後、三十年前にたすけさせて頂いた人が、詰所の土地を紹介して下さることになった。遠方は困ると思っていたら、天理駅のすぐ傍でお与え頂き、単立教会であるのに母屋の建築の御守護を頂いた。これみな教祖九十年祭の種蒔きの芽生えである。”年祭こそたすけて頂く旬”である。
教祖百年祭を逃がしたら、たすけて頂く旬は遠のくことを肝に銘じて、理づくりに励むことを怠ってはならない。