父・芝甚之助は二代真柱様の御命で、昭和十四年五月七日から昭和二十一年五月五日出直すまで宇佐大教会(当時は分教会)五代会長をつとめさせて頂いた。その関係で、私ら夫婦は昭和二十八年五月、宇佐大教会の創立六十周年記念祭に招待を頂いて、参拝させて頂いた。
その帰途、別府航路の黄金丸という船で帰った。真柱様も随行の先生方も皆同じ船であった。船の中で一泊して翌朝になって、随行の先生方に誘われて特別船室におられた真柱様にご挨拶に行くことになった。その時の随行先生は梶本宗太郎、高橋道男の両先生、それに宇佐大教会長・桝井孝四郎先生も同船しておられた。私たち夫婦はこんな偉い先生方と一緒にされて身の縮まる思いで隅で小さくなっていた。随行の先生方は皆、父の生前中呢懇であった関係上、私らにもやさしく気を遣って接遇して下されたのは、本当に有難い幸せであった。お誘い頂くままにその後に随った。一同が真柱様にご挨拶申し上げ、お推め頂くままに随行の先生方は椅子に腰かけられた。私も腰をかけさして頂いた。真柱様と先生方がお話しされ、それをきかせてもらっていると、突然、「芝」とおっしゃった。隅っこでできるだけ目に見えんところで小さくなっていたのに名前を呼ばれ、びっくりして、「ハイ」とお答えすると、「お前、今何をしているのか」とお尋ねになった。「ハイ、大阪で単独布教中であります」 とお答えした。すると「大阪は何処か」と重ねてお訊ねになった。真柱様からお声をかけて頂いた時から私は立っていた。「大阪は長柄(ながら)であります」とご返事申し上げたら、「長柄とはどの辺か」とまたお訊き下さった。長柄という土地柄についてご説明申し上げた。真柱様は暫くの間お考えのご様子であったが、傍に控えていた秘書の青年に何事か合図なさった。とその青年は真柱様の居室の方へ引きかえして真柱様の書類カバンを真柱様に手渡された。真柱様はそのカバンの中から書類や万年筆やいろいろの小道具を取り出しになって、御自分の円卓の上へお並べになっていた。私は座ろうか、このまま立っていた方がいいのだろうか、迷っていた。真柱様はカバンの中になんにも残ってないのを確認されて、「芝、これをあげるわ」とカバンをお差し出しになった。さあえらいことになった、と思った。今新品を買ってこれをあげるわ、とか今使っていないものをあげるわとおっしゃるのなら、有難うございますと戴けるが、今お使いになっているものを出して、「さあ、あげるわ」とおっしゃっても、「ハイ有難う」と言う訳にはゆかない。こんな場合はどうしたらよいのだろうか、と私は突っ立ったまま考えていた。その時、随行長の梶本宗太郎先生が助け船を出して下さった。「芝さん、頂きなさい。あんたは幸せやなあ。真柱様からカバンを頂くなんて、めったにあらへんで。さあ遠慮なしに頂きなされ」と言葉を添えて下さった。これで私も頂いていいものだということがわかった。両手を差し出して恭々(うやうや)しく頂戴したのであった。
その時、真柱様に信者も追々と出来ておりますが、まだ布教所の名前がごさいません。講名をおつけ頂きとうお願い申し上げます、と身の程も顧みず、厚かましくもお願い申し上げた。その時、真柱様は何もおっしゃらなかった。
それから一年近く経った、昭和二十九年四月八日。布教所のタづとめが終わった時、内統領室から連絡があった。講名をつけて頂いたから明日御分家先生のお宅へ取りに来い、ということだった。おっしゃる通り、中山為信先生のお宅へお伺いすると、先生から一通の封書を頂いた。中を開けてみると赤罫紙に、「はるのひ」と御染筆があった。
私は、「はるのひ」という名称についてよく質問を受ける。どういう動機でつけたのか、とかどんな意味なのか、とか尋ねられるが、私は何も知らない。ただ、昭和二十九年四月八日という日は、春らしくポカポカと暖かく、一日中春めいた陽気の良い日だった。真柱様はその時、一年前にお願いしてあった講名を思い出されて、こんな暖かい教会になればいいのに、とお思いになって名付けて下さったのではないだろうか。昭和三十七年三月六日、はるのひ分教会設立奉告祭の時、二代真柱様のお言葉の中に、「はるのひの名にふさわしく、しっかりと陽気な明るい、そして喜ばしい教会の空気を湛(たた)えて行くか否かということは、今日のこの元一日の決心を皆様方の心にしっかりと抱いて頂くか否かにあるものと申したい」という一節がある。
ご命名下さった真柱様の御意思はそこにあったと思う。二代真柱様の御意思に添わせて頂いて、「はるのひ」の教会は明るく陽気に、みんなが互い立て合い扶け合って勇んだ教会にならせて頂かねばならないと日々心して通らせて頂いている。