『一日一回おさづけ』芝太七著_01)私の入信

 昭和二十二年七月三十日昼下がり、所は京都駅一番ホームの中央位置、一人の青年を数人の男女が取り巻いていた。青年の服装は、薄みどり色でオールスフのべろべろの上衣ともシャツとも言えない上っ張り、同じ布のちゃんちゃんに短いステテコのようなバッチ、足はフェルトではないフェルト類似の膝下まであるゴソゴソのロシア長靴、頭には戦闘帽のような、やはりスフの頭巾。青年とそれを取り巻いている数人との間に言葉の遣りとりがある。あたりには誰も人影がない。この一団だけが真夏の酷暑のホームに立っている。青年とは、シベリアから復員して来たばかりの三十五歳の私である。取り巻いている数人は兄姉や親戚の人たちである。養父(以下、父と記す)の死を知って、もう故郷へは帰らない。シベリアへ戻ると駄々をこねている私に、兄姉たちがなだめすかして連れてかえろうとしているのである。

 私は学校を出ると、すぐ大阪府庁経済部へ就職した。昔のことだから官吏と言った。官吏として在職しているうちに戦争がだんだん拡大して、とうとうアメリカを相手の大東亜戦争に進展した。徴兵検査には、第二乙種で兵役には関係ないと思っていた私にも召集令状が来た。当時は赤紙と言った。昭和十七年のことである。大阪第八歩兵連隊、当時は中部第二十二部隊といったが、そこへ入隊した。召集令状には三ヵ月間の教育召集と書いてあったが、決して三ヵ月で帰してくれるような生やさしいものではなかった。教育期間が過ぎると、外地派遣となって特別部隊が編成されてそれに加えられた。場所は大阪御堂筋にある難波別院であった。部隊がその寺を出発したのは、昭和十八年四月七日。御堂筋の桜がちらほら咲いていた。北海道小樽港を出港したのは、昭和十八年五月の二十日過ぎであった。六月一日には、千島列島ウルップ島に上陸して、守備隊として陣地構築と北方基地設営に挺身して、敗戦と共にソ連に連行され、およそ二ヵ年重労働に服し、昭和二十二年七月末近く、ナホトカ を出港、舞鶴で二日間諸検査を受けて三十日復員となり舞鶴から特別仕立の復員列車に乗り京都駅へ着き、京都駅で西と東に別れ復員列車は今、東海道線を西と東へ出発して行ったところである。もちろん京都駅で降りた一団もあった。私はその一団の中にまじっていたのであるが、他の人々はそれぞれ家路へと急いで行っても、私だけは近親の者たちとホームのまん中で立ち往生していた。人影のない閑散とした寂しい駅舎であった。

 千島からシベリアへと、およそ五年の間は私の頭の中には父への思慕で充ち満ちていた。復員できた喜びの最大のものは、父に会えることであった。父から受けた諸々の教訓が、千島とシベリアの五年間、私の頭にまとい付き、生きた道しるべとして常に私を導いてくれていた。たとえば、こんなことがあった。 

 南御堂(難波別院)で部隊編成が終わって出発直前のある日、家族との面会が許された。 昭和十八年の四月のことだから、敵のスパイ活動は熾烈をきわめていたので極く秘密のうち に部隊の恩情の表現だろう、家族との最後の面会が許された。場所は堀江小学校の雨天体操場であった。出生時の面会は地獄絵図である。これが今世の生き別れなのだから、ここで別れたら再び会うことができるか、恐らく会えない公算が大きい。こんな悲惨なことは戦時中ならばこそあり得たので、今ごろは想像もできないことだが、面会場は修羅場である。親と子、夫と妻、兄と弟妹、切っても切れない愛情の絆を無理に切るのだから、面会場は所せましと兵士を囲んで、家族の人たちが工面して来たご馳走をありったけ並べて食わせたり飲ませたり、その当時は食料品はもう殆どが配給制度の時代だったのに、どこでどんなに闇で都合してきたのか、ありったけの料理を並べて、酒の好きな人には酒を、甘党の人にはボタ餅やあんころ餅を、さあ喰へ、さあ飲め、兵士は空腹がちだから喰うわ飲むわ、阿修羅そのまま、この世の姿とは思われない。私にも面会人が来てくれた、父と妻と子供(当時二歳の長女)。 これが、私が出征して行ったら後に残る家族のすべてである。父と娘と孫である。その当時、父は借家の管理や家政のことはほとんど私に委せていたので、私が出征して不在になったら父が困るような問題について、父や妻に言い遺しておかねばならない。時間が無いので簡潔に話した。 

 私も空腹で飢えていたので、「お父さん、お酒はどうしましたか」と聞いた。父は怪訝そうな顔をして、「そんなもの持ってこなかったで。軍隊から面会許可の通知にはなあ、飲食 物は一切持ち込みならんと書いたったで」「けれどもあこでもそこでもみんな飲んだり喰ベ たりしていやはりますが」「あれはなあ、してはならんということを犯してやってはるねんやから身につかんで。お前酒好きなんはよう知ってるが、飲食物は持ち込みならんと書いてあったからな、酒も寿司も持ってこなかった。これでも喫うていたらええが」とカバンの中からぽっと放り出した。それは、チェリーという当時桜の模様を印刷した両切りの十本一箱のタバコを十個、シデ紐で縛りつけたひとかたまりだった。 

 父は、つね日ごろカチカチの固パンだったが、この永久の別れとなるこの時でも、その姿勢を崩さない、やはり固パンだなあと思った。好物の酒を飲んで、寿司を喰べられる喜びは水の泡と散った。そのうち時間が来た。家族と最後の別れをして、校門へ殺到した。なんしろ、私は補充兵の新兵、二等兵である。早く屯営へ帰らねばビンタがとぶ。負けじと駆け出した。ものの十歩も走ったかしら、うしろから父が私を呼び止めている。まだ用事が残っているのかと思って後戻りした。父は尺寸の間に睨みつけるようにして、こう言った。

 「あのなあ、これだけは忘れなよ。戦争に行ったらもうあかん、これが最後やと思う時がきっとある。一回あるか二回あるか、必ずある。その時はなあ、お前は天理教嫌いやけど、これだけは守れよ、もうあかん死は逃れられんと思った時、心の中で両手を合わせて、『南無天理王命』と唱えてくれ。そしてなあ、もしもここで命があったら、余生は神様の御用させてもらいます、と誓ってくれ。なあ、そしたら神様はきっとお前だけは、たすけて下さるで。これを忘れたらあかんで」と、ぽんと私の肩を叩いた。

 私は早く帰営せねばビンタをくらうので、人に遅れじと、「お父さん大丈夫です。きっと生きて帰りますよ。行ってまいります」と言い棄てて校門に殺到した。これが父の最後の言葉になった。私が復員してきた時は、もう父はこの世にはいなかった。一年祭が終わった後だった。したがって、私が父から聞いた最後の言葉がこれであったのである。 

 屯営へ帰ったら出動準備である。これがまたたいへんで、完全装備だから兵器、弾薬、食料等すべてだから目方にしたら四〇キロは越える。それの支給だから大騒動の中、いつの間にか父の言葉は忘れてしまっていた。北海道の浦河に集結して小樽港を出帆したのは、昭和十八年五月も月末に近かった。七千トンから一万トン級の輸送船四隻が前と後を駆逐艦に護衛されて、上空には飛行機が哨戒して威風堂々あたりを払うようにオホーツク海に出て行った。ところが、オホーツク海は五月頃から濃霧になる。ベーリング海から来る寒流と南から北上する黒潮の交流する所だから咫尺(しせき)も弁じない。飛行機はもちろん、前の船、後の船、友船もどこへ行ったかわからない。私達の輸送船はただ海上を漂流しているだけである。そのうち五月三十日、無電でアッツ島が玉砕した、山崎部隊長以下二千名の将兵は一人残らず戦死した、アッツ島を包囲していた敵の無数の潜水艦は千島列島に添って南下中である。お前の船もすぐ最寄りの島に避難せよ、と連絡が入った。私たちの部隊は、アッツ島を援助する任務を持って航行中だったようである。それが島に到着する前に玉砕したのでその目的を失った。近くの島といっても、濃霧でそれが分からない。しかし海上で留まっているわけにもいかず、逃げるに逃げるところがない。

 船は旋回を始めた。船内の将兵は逃げる用意である。オホーツク海は春先は流氷で一杯になるくらいだから、夏でも水は冷たい。盛夏でも海水浴はできない。一分間海水に手をっけ ているのは、容易なことではないのである。だから、人間が海の中へ沈んだら三分くらいは命はあるだろうが、それ以上は命はない。しかし、救命胴衣を着たら、海水の中で五分間くらいは命があるかも分からない。その間に何かが流れてきたら、それにつかまって救けられるかもわからん、と軍医は言うのである。全身ゴム衣で覆うあの重たい救命胴衣が全員に配 給になった。救命胴衣を持って船倉から急造の華奢(きゃしゃ)な長い梯子段を甲板へ駆けのぼって、足から救命胴衣を着るのである。一刻も遅れてはならんのである。遅れたら死ぬのだから、将兵みな顔色はない。いかに人間というものは死には弱いものかとよくわかった。私も重い救命胴衣を抱えて駆け上がっていた。 

 その時である。ふと、父の言葉が蘇(よみがえ)ってきた。面会場での最後の言葉である。「南無天理王命」と称えたらたすけてもらえる。俺だけは海の底へ落ちても、「南無天理王命」と称えたらゴボゴボと浮いてきて、目の前に板が流れてきて、その上に乗ってたすかる。こいつら、みんな死によるが俺だけはたすかるのだ。そうだ、こんな馬鹿なことをすることないのだ。それからはあの重い救命胴衣を持って駆け上り下りの愚行は止めて自分の班席でデンと腰を据えた。人間というものは勝手なものだ、と今思う。今までは父に逆らって天理教の反対ばかりしてきて、さて命が危ないとなったら 掌(てのひら) をかえしたように父の言葉を信じるのだから。溺(おぼ)れる者は藁(わら)をもつかむというが、本当に親の言葉はど子供の心の支えになるものはない。 

「手を合わせて『南無天理王命』と称えたらたすかる」。 この一言が私の心には千万鈞の重さに味方した。安心立命とはこのことだ。戦友たちがどんなに右往左往し、慌てふためいていても、私は船倉にどっかり腰を据えてびくともしなかった。そのうち六月一日になってやっと霧が晴れた。目ざすウルップ島も見つかった。その日の夕刻上陸できた。以来千島の二年半、シベリアの二年、都合四年余りの間には危険な場所、生命の危機に瀕する時も決して一再には止まらなかった。けれども、私はいつもこの父の言葉に縋(すが)っていた。だから、私はそんな所を忌避したり逡巡したりすることはなかった。むしろ率先して難に赴いた。私は死なないという自信が私を支えていた。千島もシベリアも、ともに気候の悪い、環境の劣悪な所であったが、虚弱な体質の私が病気一つしないでつとめ了えたのは、父のこの言葉の支えがあったからである。父は私に、酒や寿司は持っては来てくれなかったが、一生心の支えとなる尊い言葉を持ってきてくれた。今もなお、私の心の中に生き続けている。 

 シベリアに抑留されている間、常に父を思い続けていた。父に会ってこのことを言いたかった。一言だけ父と話ができたらいい、父に会いたい。それだけであった。 

 その二年間の思いが叶えられて、今やっと故国の手前まで帰ってきた。京都駅で下車したら、私の名前を大きな白紙に大書した幟(のぼり)を持った一団がワッと私を取り囲んだ。近親の一人 に私が、「お父さんはどうか」と急きこんで聞いた。先方は虚を突かれて返事ができなかった。父が死んだということは、すぐには言わないでおこう、子供の死んだことも言わないでおこう、きっと病身で帰ってくるに違いないから、急に言ってびっくりさせないでおこう、と皆の打ち合わせが出来てあったらしい。それを突然、挨拶もなく開口一番、父の安否を聞かれたのだから一同はびっくりしてしまった。すぐには返事をする者がなかった。 

 昨年五月五日養父は六十四歳で出直したという、私は大地が裂けたかと思った。父に会える喜びで張りつめていた私の心が、いっぺんにふっ飛んでしまった。近親の者たちが私を宥(なだ)めすかすのに、大分時間を費やしたように思う。兄姉たちに支えられるようにして、奈良電(今の近鉄)への階段を登った。その途中、長女が昭和二十年九月、五歳で亡くなったことも知らされた。それには別段、私に感慨も湧かなかった。出征中に私に予感があったから。妻が天理へ疎開していて、元気で今日は天理駅へ迎えに来ていることも耳に入れた。沈み勝ちな私の心を何とか引き立てようと、みんなが一生懸命につとめていることも私にはよく察しられた。

 奈良電車は窓ガラスがなくて、ところどころミカン箱の板のようなものを打ちつけていた。汚れて荒れ放題だった。車内で考え続けた。父を頼りに帰って来たのに、父はもうい ない。これからは、私が芝家の芯である。戦地で大阪は戦災に遭って跡形もなくなったと風の便りで聞いていた。恐らく、芝家の数十軒の借家もみんな灰燼(かいじん)に帰したのだろう、中之島のすぐ北側だから戦災からは免れられなかっただろう。父が生きていてくれたら復興に力を添えてくれるのに。これからは私一人でやっていかねばならん。芝家再興の祖となって、子孫に財を残そう。それにはすぐ大阪府庁へ復職して、まず官吏として地位を築いていこう。 私は、そんなことを電車の中で考えていた。

 その中に、電車は天理駅へ着いた。天理駅は昔と変わらなかった。私は昔を懐かしんで駅のあちこちを眺めていた。車内で妻が天理駅へ迎えに来ていると聞いていたので、駅へ着いたらすぐ妻が近寄って来るぐらいに思っていたのに来ない。第一、そんな婦人がいない。改札口まで出てもいない。ハッピを着た天理教の信者はたくさんいた。出口を出たところに、いっぱい群がるように三、四十人の婦人の信者はいた。けれども妻はいない。親戚の者に一杯喰わされたかと思った。 

 私は三十歳で出征して、三十五歳で帰ってきた。五年ぶりに旦那さんが帰ってくる。今日こそは、箪笥の底に仕舞ってあった一張羅の着物を引き出して、白粉つけて紅つけて迎えにくる。その姿で妻は私の出征を大阪で送った。だから、私にはその思いがあるものだから、 一張羅の着物を着た人を探しているのに一人もいない。 

 その時である。ハッピを着た婦人の信者さんの中から、一人のハッピ姿の女の人が私の傍へ近づいてきた。よく見ると、それが私の妻である。上はハッピ、下はカスリのモンペ。土用の暑い盛りである。それにモンペをはいて白粉も紅もない。これが我が女房かと、私は穴のあくほど女房の顔を見つめた。女房はニコニコとして、私に寄り添ってきた。その時、一 瞬頭にひらめいた。そうだ!これだったのだ、私の心はその一瞬に決まった。 

 シベリアで抑留中のことである。捕虜の生活は苦しい。自由がないということだけでも、どれほどの苦痛か。監獄も自由がない。重症で寝たきり患者も自由がない。すべて自由のない者は苦痛である。捕虜も自由がない。今生きていて次の瞬間も生きられるという保証はどこにもない。捕虜に自由、人権を守ってくれる憲法はどこの世界にもないのだ。自由のない生活しかも生命の保証のない生活、これほど苦しい世界はない。私はこの世界で二年間、生命の危険に怯えながら重労働に従事してきたのである。しかも食糧は常に不足、空腹に堪えて、二年間に一度として満腹感を味わったことがない。それで重労働である。夏は鉄道建設と保線の作業、冬は山林に入って身動きもできない深雪の中で材木の伐採と運搬作業、ともに命がけである。冬は氷点下四十幾度と下がる。氷点下四十度を下がると、もう煙突の煙は上へのぼらない。屋根に沿ってたなびいてくる。それに空腹が加わってくる。これで生きておられるのが不思議である。栄養失調と寒さで絶命する人が少なくはなかった。人間は激動の中で、死を見つめ選ぶことは案外できやすいと思う。この戦友もあの戦友も死んだ。酷寒の中、栄養失調で死ぬのは本当に楽なのである。夜寝る時話して、翌朝起きたらもう冷たくなっている。いとも簡単である。三日間下痢が続いたら、もう駄目なのである。この次は俺の番だろうか、その次だろうか、じわじわと迫って来る自分の死を迎えることは尋常ではない。こんどは自分の番だろうかと思っていた時、ふと、もしここで死んだらいったい俺は何のために、何をしにこの世の中へ生まれてきたのだろう。人間は死に瀕した時、過去を思うものだ。大抵の場合は過去のことが思い浮かんでくる。 

私の過去は官吏である。私は官吏として、大阪府の行政の上に人後に落ちない働きをしてきたつもりであった。今では官吏のことを公務員と称し民衆の公僕というが、昔は官吏とは天皇陛下に従属して天下の聖職と言った。私は公私の区別なく、誠心誠意働いてきたと自負していたところが、自分の死を静かに迎える心になった時愕然(がくぜん)とした。 

 私が聖職と自負してきた仕事は、実は私の自我につながる仕事であった。この仕事をやりとげたら俺の地位がよくなる、これをやり了(おお)せたら私の顔がよくなる、地位が良くなる、欲望が満たされる、と物や地位や名誉そんなものにつながった仕事しかやってなかったことに初めて気がついた。取りかえしのつかないことをした。しまった。もう後へは戻れない。自分の欲望のために働いてきたのなら、犬や猫と同じだ。そう感づいた時、私は本当に全身から血の気が引いてゆく思いがした。こんな所で死ねん、死んでなるものか。もう一度内地へ帰って、こんどは生まれ変わって本当に民衆、大阪府民のために働く、自分を滅して人のために働く。国家の官吏らしく、赤貧に甘んじて裸になって働こう。そう心に決した。それからである。不思議な糸で引き寄せられるように日本送還の関所を次々と潜(くぐ)って内地へ復員できた。 

 ハッピ姿でニコニコしている妻を目の前にして、私の頭にそのことが浮かんだ。そうだ、 シベリアで心を決めて裸の姿を求めていたのはこれだったのだ。女房がハッピを着てよろこんでいるのなら、私もこの女房と一緒にこのハッピを着て天理教になろう。もう大阪府庁は辞めた。そう心が決まった。 

 これが私の天理教入信である。もしもあの時、女房が旦那さんは天理教が大嫌いである、今日だけは着物を着て白粉つけてお化粧して行かねばと、世界並みの心を出して迎えに来ていたら、私はとうとう天理教にはなれなかったであろう。そしてもっと若死にしていたはずである。巧言麗句(こうげんれいく)が人の心を動かすのではない、美辞令色(びじれいしょく)で人は感動するものではない、裸の姿が人を動かす。飾らない姿こそ、人の心を揺り動かすのである。女房の天理駅でのハッピ姿が、私の心に大革命を与えた。 

 諭達第一号の中で、「神一条の心定めこそ、たすけの理をいただく根本である」と教えて下さる。この時、女房は全く神一条であった。常識に動かされて右顧左眄(うこさべん)してはいなかった。神様の御守護がもう一つ頂けない。こんなに信心していても、なぜ、もう一つ鮮やかな御守護がないのだろう、という時はきっと神一条を忘れて人間一条になっている時である。

 私の入信は決まった。女房に、参拝してから帰ろうと、神殿の方への道を選んだ。女房はびっくりした。天理教嫌いの私が本部へ参拝しようというのだから。家へ帰って親戚の居並ぶ中で開口一番、「私は今日から天理教になります。大阪府庁は辞めます」と帰還の挨拶をした。兄姉たちはそんなに早まるなと制止したが、私の心は不動であった。これから私の天理教の歩みが始まるのである。

2)順序の道 >>